第十一話 風が吹く時
永禄三年五月十九日。今川義元の本隊は、遠江・掛川城から尾張・桶狭間へと進出した。雨上がりの蒸し暑さの中、信虎の書状を携えた明智光秀が、ついに義元の前に姿を現す。
桶狭間の本陣。義元は、黄金の扇子をゆっくりと動かしながら、目の前に跪く男を値踏みするように見つめた。
「……面を上げよ。信虎殿が『雪斎に勝るとも劣らぬ大器』と認めた男、明智十兵衛光秀とは其方か」
光秀が静かに顔を上げる。義元は一目で悟る。この男は、今川の家臣たちのような「追従」ではなく、ただ「真実」のみを語る者であると。
「今川義元公。日ノ本の秩序を創るお方の大業を拝見したく、参じました」
義元は微笑を浮かべ、傍らに光秀を招き寄せた。
「十兵衛、早速だがこの陣容をどう見る。元康が丸根、泰朝、直盛が鷲津を落とし、信長は動かずにはおれまい」
光秀は周囲の起伏に富んだ地形、そして窪地に密集する大軍を一瞥し、忌憚なく告げた。
「義元公。この地は、数に勝る側が最も危うき場所。某、毛利元就公が陶晴賢を破った『厳島』、あるいは北条氏康公の『河越夜戦』を思い出さずにはいられませぬ。いずれも、大軍が勝利の予感に浸った刹那、その慢心の隙間を縫うように奇襲を受け、瓦解いたしました」
「信長は今、窮鼠。窮鼠は必ず、穴を掘ってでも敵の喉元を破りに参ります。この桶狭間の雨、そして起伏は、寡兵が姿を隠し、一気に大将の首を狙うには絶好の舞台にございます」
周囲の家臣たちが「尾張のうつけごときに何ができる」と嘲笑う中、義元だけは微動だにせず、光秀の言葉を真っ向から受け止めた。
「……面白い。初対面で余に死を説くか。しかし十兵衛、雪斎が居れば、同じことを申したであろうな」
義元は立ち上がり、西の空を見据えた。
「信長が奇襲を仕掛けてくることなど、百も承知よ。あやつにしてみれば、正面からぶつかっては万に一つも勝ち目はない。籠城しようにも後詰もない。ならば、余の首だけを狙って雨の中を駆けてくる。だがな、十兵衛……」
義元は黄金の扇子をパチンと閉じた。
「奇襲とは、敵がこちらを『見失っている』からこそ成るもの。余が信長をこの桶狭間に誘い込んだのは、その奇襲という名の『最後の一矢』を、真正面から叩き折ってやるためよ。信長の牙を、この場で完全に砕いてこそ、尾張は余のものとなる。其方はその証人となれ」
義元は奇襲を予見し、それを「王の威厳」で迎え撃とうとしていた。しかし、光秀の胸には、一抹の不安がよぎる。
「十兵衛、余の傍らにおれ。信長がいずこより現れるか、貴殿の眼で真っ先に見定めよ。……直盛、大高の元康には伝えたか? 城を動かず、信長の背後を突く支度をせよとな」
「はっ。伝令を飛ばしておりまする。元康殿、すでに英気を養い待機しているはず」
その時、一陣の不気味な風が吹き抜け、空が急激に暗転した。 大高城で刃を研ぐ元康、桶狭間で不敵に待つ義元、そして暗闇の中を死兵として駆ける織田信長。 すべての運命が、激しい雷鳴と共に一つの点へと収束しようとしていた。




