第十話 大高城の兵糧入れ
軍議を終え、広間を出る元康の背中に、冷たい風が吹き抜けた。
「殿、あまりに無慈悲な命。大高城は死地でございます」
酒井忠次が低く囁くが、元康は前だけを見つめていた。
「忠次、義元公は私に、今川の誰よりも重い責任を預けられた。あの方が私に期待するのは、今川の犬として死ぬことではない。絶望の中で『器』を磨くことだ」
永禄三年五月。尾張・大高城。 城は織田軍の幾重もの砦に包囲され、食糧は底をつき、飢えた兵たちが草の根を噛む惨状にあった。
元康は本陣にて、忠次を傍らに、尾張の地図を指し示した。
「忠次、見よ。大高城を救うには、城を囲む織田の『目』を潰さねばならぬ」
地図上では、大高城を挟むように丸根砦、鷲津砦が配され、織田軍が城への一切の出入りを遮断していた。
「先ずは丸根と鷲津を火の出る勢いで攻め立てる。信長の兵たちが、自らの砦を守ることに血眼になり、大高城への意識が削がれたその刹那こそが勝機。その隙を突き、兵糧を城へ滑り込ませるのだ」
丸根砦は切り立った丘の上に位置していた。織田方の守将・佐久間盛重は、義元軍の接近を察知し、砦の周囲に深い空堀と逆茂木を巡らせ、今川方の増援を完璧に遮断していた。
「殿、丸根の坂は急、上からは織田の鉄砲が狙い澄ましております。正面突破は正気の沙汰ではございませぬ!」
酒井忠次の懸念を、元康は切り裂くような視線で撥ね退けた。
「忠次、我ら三河侍が火の玉となって突っ込むのよ。我らが止まれば、大高の友軍も皆死ぬぞ!」
元康は自ら下馬し、泥の中に足を踏み入れた。
「者共、続け! 盾を並べ、一歩も引くな!」
松平勢が坂を駆け上がると同時に、砦の狭間から鉄砲が一斉に火を噴いた。先頭の兵たちが泥に沈むが、元康は最前線で刀を抜き、飛来する弾丸を恐れず進む。
その横を、疾風のごとき影が追い抜いた。
「初陣の誉れ、平八郎が一番乗りを果たす!」
彼は大身の槍を振り回し、飛んでくる矢を叩き落としながら、織田軍が築いた逆茂木を力任せに引き抜いた。
「続け! 殿の道を作れ!」
忠勝が咆哮し、槍の石突で防柵を粉砕すると、そこへ松平勢が雪崩れ込んだ。
元康はただ突撃するだけでなく、敵の目を大高城から完全に逸らすため、兵に命じて砦の風上に火を放たせた。 雨の中、油を混ぜた松明が黒煙を呼び、丸根砦の木柵を舐め回す。
「熱いか! だが、大高で飢えている仲間は、これ以上の地獄におるのだ!」
元康は煙の中に飛び込み、防戦する佐久間盛重の兵たちと白刃を交えた。時を同じくして泥にまみれた兵糧が次々と大高城内へと運び込まれる。元康の狙い通り、織田軍は砦への猛攻を防ぐのに精一杯で、目の前を通り過ぎる兵糧部隊に手が出せなかった。
兵糧入れを完遂させた元康は、息をつく暇もなく、そのまま丸根砦を攻撃。熾烈を極めること数刻。守将・佐久間盛重が討ち取られ、丸根砦に松平の葵の旗が翻った。同時刻、鷲津砦も朝比奈泰朝、井伊直盛の手によって陥落し、織田の包囲網は完全に瓦解した。
史実では、忠勝は討たれそうな所を叔父の忠真に助けられたとか。




