第九話 焦燥
永禄三年、初夏。駿府今川館の広間。
広間には、今川一門の重鎮、そして三河・遠江の諸将が集い、異常なまでの熱気が渦巻いていた。その中心に座す今川義元は、黄金の甲冑を纏い、もはや一国の主というよりは、地上に降り立った戦神のような威圧感を放っている。
「皆の者、聞け。此度の尾張侵攻は、単なる領地争いではない。今川の『理』を天下に示す、京への第一歩である」
義元が扇を広げ、地図を指し示す。その目は、かつてないほどに澄み渡っていた。
「先鋒、ならびに大高城への兵糧搬入を、松平元康に命ずる」
その瞬間、広間がどよめいた。織田の包囲が最も厚い大高城への兵糧入れは、生還を期しがたい死地への任務である。元康は静かに平伏したが、その拳は畳を強く押し潰していた。
義元は元康を真っ直ぐに見据え、あえて全将兵に聞こえる大声で言った。
「元康! 貴殿の武は、今川のみではない。天下を切り拓く鋭き矛だ。この死地を越えてみせよ。越えた先で、余は貴殿に、三河の主としての真の格を与えよう」
それは、あまりにも残酷な、そしてあまりにも巨大な「期待」であった。
一方で、義元は傍らに控える氏真と糸に向き直った。
「氏真、そして糸よ。この駿府を、今川の根幹を守ることを命ずる。余が尾張を平らげる間、駿河の法を、民の安寧を揺るがせにするな。余が戻る場所は、常に美しくあらねばならぬ」
その瞬間、氏真の指先がわずかに震えた。
(またか……また、私は蚊帳の外なのか)
氏真にとって、義元の「慈愛」は、自分を戦人として認めない「拒絶」と同義であった。父の期待に応えるべく文武に励んできた。しかし、義元が元康に向ける「命を懸け勝ち得た信頼」に比べ、自分に与えられる「安全な留守居」という役目は、あまりに軽く、頼りない。
(父上は、私を信じておられぬ。私に、泥にまみれる覚悟がないと思うておられるのだ)
隣に座る糸が、氏真の膝の上の拳にそっと手を重ねた。彼女の掌は温かいが、その優しささえも、今の氏真には「保護されるべき弱者」であるという証に感じられ、胸を締め付けた。氏真は、元康の汚れた戦装束が、眩しくて仕方がなかった。
義元は氏真の焦燥を承知の上で、あえて視線を逸らした。
「氏真、勘違いするな。留守を預かるは、余の背後を預かるということ。余が尾張で果てぬのは、其方がこの駿府を盤石に守っていると信じるからよ」
続いて編成が発表されるが、最早氏真の耳には何も響かない。
軍議が終わり、将兵たちが足早に去っていく中、氏真は一人、広間に残っていた。
開け放たれた縁側から、初夏の雨が吹き込んでくる。
「殿、あまり思い詰められますな」
糸の言葉に、氏真は力なく笑った。
「糸よ。父上は、私に『美しい天下』を譲ると仰った。だが、元康のように自ら血を流し、死線を越えたことのない私に、その天下を治める資格があるのだろうか。……私を縛っているのは、今川の血ではなく、父上の大きすぎる慈悲なのだ」
氏真は、雨に煙る西の空を見つめた。そこには、元康が命を懸けて向かう「戦場」がある。
「……いつか、私も父上の影を飛び出さねばならぬ。このままでは、私は今川を滅ぼすただの抜け殻になってしまう」
氏真の瞳に宿ったのは、初めて父の意に背いてでも「己を試したい」と願う、若き龍の孤独であった。
義元は氏真に結構甘かったとか。




