表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
義元英雄伝  作者: 日向 守


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/20

第九話 焦燥


永禄三年、初夏。駿府今川館の広間。

広間には、今川一門の重鎮、そして三河・遠江の諸将が集い、異常なまでの熱気が渦巻いていた。その中心に座す今川義元は、黄金の甲冑を纏い、もはや一国の主というよりは、地上に降り立った戦神のような威圧感を放っている。


「皆の者、聞け。此度の尾張侵攻は、単なる領地争いではない。今川の『理』を天下に示す、京への第一歩である」


義元が扇を広げ、地図を指し示す。その目は、かつてないほどに澄み渡っていた。


「先鋒、ならびに大高城への兵糧搬入を、松平元康に命ずる」


その瞬間、広間がどよめいた。織田の包囲が最も厚い大高城への兵糧入れは、生還を期しがたい死地への任務である。元康は静かに平伏したが、その拳は畳を強く押し潰していた。

義元は元康を真っ直ぐに見据え、あえて全将兵に聞こえる大声で言った。


「元康! 貴殿の武は、今川のみではない。天下を切り拓く鋭き矛だ。この死地を越えてみせよ。越えた先で、余は貴殿に、三河の主としての真の格を与えよう」


それは、あまりにも残酷な、そしてあまりにも巨大な「期待」であった。

一方で、義元は傍らに控える氏真と糸に向き直った。


「氏真、そして糸よ。この駿府を、今川の根幹を守ることを命ずる。余が尾張を平らげる間、駿河の法を、民の安寧を揺るがせにするな。余が戻る場所は、常に美しくあらねばならぬ」


その瞬間、氏真の指先がわずかに震えた。


(またか……また、私は蚊帳の外なのか)


氏真にとって、義元の「慈愛」は、自分を戦人として認めない「拒絶」と同義であった。父の期待に応えるべく文武に励んできた。しかし、義元が元康に向ける「命を懸け勝ち得た信頼」に比べ、自分に与えられる「安全な留守居」という役目は、あまりに軽く、頼りない。


(父上は、私を信じておられぬ。私に、泥にまみれる覚悟がないと思うておられるのだ)


隣に座る糸が、氏真の膝の上の拳にそっと手を重ねた。彼女の掌は温かいが、その優しささえも、今の氏真には「保護されるべき弱者」であるという証に感じられ、胸を締め付けた。氏真は、元康の汚れた戦装束が、眩しくて仕方がなかった。

義元は氏真の焦燥を承知の上で、あえて視線を逸らした。


「氏真、勘違いするな。留守を預かるは、余の背後を預かるということ。余が尾張で果てぬのは、其方がこの駿府を盤石に守っていると信じるからよ」


続いて編成が発表されるが、最早氏真の耳には何も響かない。

軍議が終わり、将兵たちが足早に去っていく中、氏真は一人、広間に残っていた。

開け放たれた縁側から、初夏の雨が吹き込んでくる。


「殿、あまり思い詰められますな」


糸の言葉に、氏真は力なく笑った。


「糸よ。父上は、私に『美しい天下』を譲ると仰った。だが、元康のように自ら血を流し、死線を越えたことのない私に、その天下を治める資格があるのだろうか。……私を縛っているのは、今川の血ではなく、父上の大きすぎる慈悲なのだ」


氏真は、雨に煙る西の空を見つめた。そこには、元康が命を懸けて向かう「戦場」がある。


「……いつか、私も父上の影を飛び出さねばならぬ。このままでは、私は今川を滅ぼすただの抜け殻になってしまう」


氏真の瞳に宿ったのは、初めて父の意に背いてでも「己を試したい」と願う、若き龍の孤独であった。


義元は氏真に結構甘かったとか。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ