彗星の遺言
宇宙世紀0090年、シャアの反乱の後、その妹セラ・マスは連邦支配を覆す可能性を持つ「ラプラスの座標」を携え、宇宙を流亡する。
一方、アナハイム・エレクトロニクス社はアムロ・レイの遺伝子を利用して強化人間の少年ルカ・ワインを製造し、彼のために「星宿海システム」を搭載したコルカス・ガンダムを開発した——敵方MSを操る禁忌の機体。
煙草局特務部隊とジオン残党の二重追跡の下、セラとルカは出会う。互いに警戒から始まり、知り合い、支え合うようになり、逃亡の中で立場を超えた絆が生まれる。
しかし、コルカスの力はルカの精神を徐々に蝕み、彼を被害者から復讐者へと変えていく。
失控したコルカスが銃口を地球圏全体に向けた時、連邦とジオンは一時的な同盟を結び、命を賭したNT-Dシステムを投入して決戦に臨む。
これは個人が時代の大波に抗う悲歌であり、一匹の「怪物」が人間性を求める物語。
UC 0093年。スウィートウォーター。総帥府邸の奥深く、密室。
空気濾過システムの低いブーンという音が、死にかけのハエのように響いていた。
シャア・アズナブルはハイバックチェアに腰掛け、赤い軍服の襟元を一粒外していた。白い肌がわずかに覗く。彼の手には爪の先ほどのデータチップが握られ、力を込めすぎて今にも砕けそうだ。
スクリーンには暗号化されたファイルの復号プレビューが表示されている。
【連邦議会特別決議案:宇宙世紀憲章原本副本の浄化および封存に関するプロトコル】
「浄化」。
なんという傲慢な言葉だ。
重力に魂を縛られた官僚どもは、現状維持だけでは飽き足らず、過去すら抹消しようとしている。三ヶ月後、「文物保護」の名目で、ラプラスの箱の残骸に残る可能性のある憲章原本を完全に破壊し、改竄された——「第七条」が削除された——複製だけを残すつもりらしい。
アクシズを落とさなければ、この蛆虫どもは人類最後の希望を、歴史ごと食い尽くしてしまう。
シャアは立ち上がった。
金色の髪が薄暗い照明の下でくすんで見える。彼は通信機の前に歩み寄り、指を一度も使ったことのない暗号化周波数にかざした。
それは彼が自分に残した最後の退路。あるいは、この世界に残した最後の保険。
通信がつながる。
ホログラム投影が一瞬揺らぎ、女性の上半身像が結像した。普通の民間服を着て、背景は簡素な隠れ家だ。
「カスバル?」女性の声が震え、信じられないという感情が強い。「こんな時にあなたが……」
「アルテイシア」シャアは彼女を遮った。
その名前は錆びたナイフのように、二人の間に残されたわずかな温もりを切り裂いた。
「別れの挨拶なら必要ないわ」セラ・マスは冷たく言った。「ニュースで軌道を変える小惑星を見てるだけで、あなたの墓標はもう立ててある」
「アクシズは落ちる。寒い冬が来る」シャアの口調は、明日の天気を語るように穏やかだった。「だがその後に人類が生き延びたなら、彼らには真実が必要だ」
彼はデータチップを送信スロットに挿入した。
プログレスバーがカウントを始める。
「これは?」
「ラプラスの座標。そしてアナハイム内部の『浄化プロトコル』に関する全証拠」シャアはバーが終わるのを見届け、「連邦は原本を破壊しようとしている。俺の粛清が失敗したら、これが奴らの頭上に吊るされたダモクレスの剣になる」
セラの映像が激しく揺らぎ、彼女は通信を切りそうになった。
「なぜ私に? あなたは私が憎んでることを知ってるのに……」
「君がアルテイシアだからだ」シャアの指がコンソール上を滑り、双方向送信を切り、音声のみの一方通行にした。「戦争を憎んでいるからだ。これをジオン狂信者に渡すより、君に預けた方が安全だ」
「お兄様!」
「さらばだ、アルテイシア。託せる未来に、それを渡してくれ」
スクリーンが暗転した。
シャアは闇の中に三秒立ち尽くした。
扉が開く。副官ナナイ・ミゲルが立っていた。背後からの光がシャアの影を細長く歪ませる。
「総帥、サザビーの出撃準備が完了しました」
シャアは襟元のボタンを留め、マスクを被った。
カスバルという名の男は、この密室で死んだ。
扉を出るのは、赤い彗星だった。
……
UC 0095年。地中海。アナハイム・エレクトロニクス第十三秘密試験基地。
「警告。G負荷9.0突破。パイロット生体値が限界に接近」
冷たい電子合成音がコックピットに響き、まるで検死報告を読むようだった。
全方位モニターに、三機のシミュレーション・キラ・ドーガが、今生で見る最速の勢いで迫ってくる。ビームアックスの粒子流が網膜に白い火斑を焼き付ける。
ミューラ・ワインは肺の空気を無形の巨手に絞り取られる感覚に襲われていた。
十六歳の少年は歯を食いしばり、口の中に鉄錆びた血の味が広がる。
レーダーは死角を完全に塞がれ、火器管制システムが狂ったように警報を鳴らし、赤いロック枠が視界全体を血痂のように覆う。
普通の人間なら、今頃は操縦桿を離し、シミュレーション終了のブザーを待っているはずだ。
だが少年はそうしなかった。千鈞の垂を発したその瞬間、背筋を電流のような戦慄が駆け上った。
世界がゆっくりになった。
時間の流れが変わったわけではない。彼の感覚だけが無限に引き伸ばされた。
彼は「見た」。
目ではなく、視覚よりも直接的な感覚で。左の敵機の推進器噴射にわずかな遅れを、右の敵機のビームライフル充能のリズムを。
そして……あの声。
【νガンダムは見た目だけじゃねえぜ!】
誰だ?
誰が喋ってる?
激しい頭痛が焼けた針のように太陽穴を貫く。ルカは獣のようなうめきを上げ、固まっていた指が一瞬で幻のように動いた。
操縦桿が物理限界まで押し込まれる。
テスト機体RGM-89Jジェガン改が甲高い金属の悲鳴を上げる。機体は空力学を無視した不自然な折れ曲がりを見せ、推進器が全出力で噴射し、本来必中の三発のビームがかすめて装甲に焦げ跡を残すだけに終わった。
ルカの照準は、その瞬間完全に敵を捉えていなかった。
それでも引き金を引く。
ビームが一機目のキラ・ドーガのコックピットを貫いた。続けて二機目。三機目は回避を試みたが、ミューラが着弾点を先読みし、ビームサーベルで腰を両断した。
「シミュレーション終了。敵機全滅。所要時間:42秒」
コックピットの照明が赤から緑へ変わる。
ルカはシートにぐったりと崩れ、胸が激しく上下し、汗がパイロットスーツの内側をびしょ濡れにした。
頭が痛い。
あの断片はなんだ?
緑の光。巨大な岩。そしてぼんやりとした白い背中。
「よくやったわ、ルカ」
通信チャンネルに女性の声が流れる。優しく、気品がありながら、どこか遠い感じがする。
「マリア……」ルカの声は砂を飲み込んだように掠れていた。「さっき……頭の中に声が」
通信の向こうが一瞬沈黙した。
「システムの高負荷ノイズよ、愛しい子」マリア・クラインの声は変わらず穏やかで、怯えた子犬をなだめるようだった。「同期率が高すぎて、神経接続に幻聴が起きたの。少し休めば治るわ」
「そう……か」
ルカは疲れ果てて目を閉じた。
本当に幻聴か? あの声に込められた怒り、悲しみ、そしてすべてを押し除けようとする決意は、自分の記憶のようにリアルだった。
マリア・クラインはコックピットとの通信を切った。
彼女は振り返り、大型スクリーンにリプレイされる戦闘記録を見つめる。最後の不自然な折れ曲がり機動。
「あのデータを暗号化して、『RX-93』アーカイブに格納して」
傍らの技術者に命じる。
技術者の指がキーボードを踊り、顔が青ざめていた。「主管、さっきの一瞬、彼の脳波パターンが……サンプルA-93と一致率98%。あり得ません、あれはすでに死んだ……」
「死んだものなどないわ」
マリアは窓際に歩み寄り、煙を上げるジェガンを俯瞰した。ガラスに映る完璧なメイクの下、瞳の奥に一瞬の狂熱が宿る。
「データと遺伝子があれば、幽霊は地獄から這い上がれる」
彼女はポケットから細いレディースシガレットを取り出し、火をつけず鼻先に当てるだけ。
「アムロ・レイ……逃げられないわよ」
……
地球連邦煙草局(ECOAS)本部。
何の標識もない黒いビルは、地球の表面に深く打ち込まれた釘のようだ。表向きは連邦政府の煙草密輸取締機関、実際は第七秘密捜査本部。
局長室で、局長ヘンリー・ウルフは高価な盆栽を剪定していた。動作はゆっくりで、剪定ばさみが閉じるたびに余分な葉が一枚、ひらりと落ちる。
「局長」
副官がドアを押し開け、緊急暗号報告書を持っていた。
「話せ」ヘンリーは顔を上げない。
「情報課が異常信号を傍受しました」副官はタブレットを机に置く。「多重偽装されていますが、周波数特性は三年前、アクシズ落下直前のシャア・アズナブルが発信した暗号通信と完全に一致します」
カチッ。
ヘンリーのばさみが、本来残すべき主枝を切ってしまった。
彼はばさみを置き、報告書を手に取る。
「位置は?」
「信号は極めて微弱で、0.5秒しか持続しませんでした。三角測位の結果、地中海沿岸地域の可能性が高いです」副官は一息置き、「最近、アナハイムがあの辺りで頻繁に活動記録があります」
「アナハイムか……」ヘンリーは冷笑った。「あの死の商人ども、やっぱり何か隠してるな」
彼は壁の電子地図の前に立ち、地中海の輪郭に指を滑らせる。
シャアの遺産。
ラプラスの座標。
もしそれが本物なら、連邦の秩序は砂の城のように崩れる。
「『山』(mountain)小隊に連絡しろ」
ヘンリーは振り返り、表情のない顔は長く被った仮面のようだった。
「休暇を中断させろ。ジョセフが文句を言ったら、今回の標的は月面で撃ってた的よりずっと価値があると伝えろ」
「任務指示は?」副官が尋ねる。
ヘンリーは机の煙草箱から葉巻を取り出し、机に軽く叩きつけた。
「座標の捜索」
彼はマッチを擦り、炎が深く落ち窪んだ眼窩を照らす。
「目標を発見したら……生かすな」
……
地中海沿岸。カサブランカの北200キロ、廃墟港。
潮の香りを帯びた海風が、フジツボだらけの防波堤を叩く。
セラ・マスはボロボロのジープのボンネットに腰掛け、古びた双眼鏡で水平線の暗い積乱雲を眺めていた。
三年。
この世界を幽霊のように彷徨い、偽名を十二回変え、安全な隠れ家を二十軒渡り歩いた。
あのチップはいつも肌身離さず身につけたペンダントの中。墓碑のように冷たい。
「託せる未来に……」
彼女は双眼鏡を下ろし、自嘲の笑みを浮かべた。
どこに未来がある?
この三年で見てきたのは、連邦のますます苛烈な捜索、ジオン残党の無意味なテロ、そしてアナハイムが両方に武器を売りさばいて儲けまくる醜悪な顔だけだ。
お兄様、あなたは間違っていた。
この世界は浄化されることなどない。ただ同じ過ちを繰り返す、壊れた歯車のようなものだ。
突然、ジープの通信機が赤いランプを点滅させた。
極めて限られた者しか知らない緊急周波数。
「セラ様」
変声処理された声が流れる。
「私が誰かは重要ではありません。大切なのは、あなたの持ち物を探している者がいることです」
セラの体が瞬時に硬直した。腰の後ろからコッキング済みの拳銃を引き抜き、周囲を警戒する。
「煙草局の猟犬が匂いを嗅ぎつけました。地中海に集結しつつあります」声は続けた。「お兄様の遺品を奴らの手に渡したくなければ、今すぐ動いた方がいい」
「あなたは誰?」セラは鋭く問い詰める。
「箱が開かれるのを見たい者です」
通信が切れた。
セラは沈黙した通信機を見つめ、胸のペンダントに指を這わせる。
地中海のアナハイム実験基地はこの近くにある。
まさか、そこから漏れたのか?
彼女は車に飛び乗り、エンジンをかけた。ジープが老牛のようなうめき声を上げ、タイヤが砂塵を巻き上げ、内陸の荒野へ疾走していった。
……
アナハイム基地、格納庫。
深夜。
ルカは眠れなかった。
目を閉じるたび、緑の光と白い機体が悪夢のようにまとわりつく。
彼は上着を羽織り、まるで導かれるように格納庫の最深部へやってきた。
ここは立ち入り禁止区域。最高権限者しか入れない。だが彼はマリアのアクセスカードを盗んでいた——いや、マリアがわざと彼のベッドサイドに落としたのか?
わからない。
ただ、何かが彼を呼んでいる。
巨大な気密扉がゆっくりと開く。
闇の中、一対の緑の目が灯った。
それはガンダムだった。
彼がシミュレーションで乗る量産型ではない。
深灰色の装甲、頭部に特徴的なユニコーン型のV字フィン。它は拘束架に静かに佇み、眠れる獣のようだった。
ルカはゆっくりと近づく。
一歩進むごとに頭痛が増す。それでも足が止まらない。
この感覚……まるで長年離れていた半身が目の前にいるようだ。
「君も孤独を感じてる?」
ミューラは手を伸ばし、虚空を隔てて機体の装甲に触れようとした。
指先が機体に触れる寸前——
警報が突然、静寂を引き裂いた。
ウー——ウー——ウー——
赤い回転灯が狂ったように回り、格納庫全体を血の色に染める。
「侵入警報!侵入警報!外郭防衛線突破されました!」
放送に慌てふためく叫びが響く。
「繰り返す!演習ではありません!連邦軍ECOAS部隊を確認!強行突入中!」
頭上から爆発音。
コンクリートの破片がばらばらと落ち、ルカの足元に降り注ぐ。
彼は顔を上げ、赤い光に明滅するガンダムを見た。
機体の単眼センサーが、一瞬だけ点滅した。
まるで笑っているように。
「……来い」
あの声がまた聞こえた。
今度は、はっきりと。




