第3話 五つの欠片
備品倉庫の空気が、扉が開いた瞬間に揺れた。
立っていたのは長身の女。黒いスーツの肩口には、金糸で編まれた輪の紋章。
右手には五つの琥珀――すべてがわずかに赤く曇っている。
「いい子ね。ここまで逃げもせずに待っていてくれるなんて」
女の声はやけに柔らかい。けれど、その瞳は笑っていなかった。
佐伯が一歩前に出て、私と紗夜を背中に庇う。
「誰だ、あんた……」
「名乗る時間はないわ。――分岐を持っているでしょう? それを渡してもらう」
彼女の視線は私のポケットに吸い寄せられている。
胸の奥がざらつく。確かに私は今、蒼真から受け取った欠片を握りしめていた。
「渡したら、私たちは?」
蒼真が低く問う。
「楽になるわ。今のあなたたちは“まだ”苦しみが足りないもの」
その言葉は、空気を凍らせるには十分すぎた。
女が一歩踏み出すと同時に、蒼真が私の手首を引いた。
「逃げるぞ!」
背後の非常口へ駆けだそうとした瞬間、女の掌から光が跳ねた。
五つの欠片が宙に浮かび、一斉に砕ける。
衝撃波のような感覚が頭蓋を叩いた。
――視界が分裂する。何本もの“もし”が同時に流れ込み、耳の奥が熱くなる。
見えた。
・佐伯が倒れる未来。
・紗夜が腕を掴まれ引きずられる未来。
・私が窓から飛び降りる未来――
「やめろ……!」
両膝が勝手に崩れ落ち、呼吸が止まりかけた。
これは、欠片を同時に複数再生させられたせいだ。しかも私の意志じゃない。
「梨央!」
紗夜の声で意識を引き戻される。
――このままじゃ、全員捕まる。
肺に残った空気を吐き出しながら、私はポケットの欠片を握った。
砕けば、別未来の一つを選べる。でも代償はまた一つ記憶を失う。
迷っている時間はなかった。
私は琥珀を強く握りしめた。
映像が走る。
薄暗い廊下。私の隣には佐伯がいて、その肩越しに蒼真が振り返る。
後方から追うスーツの女は、何かを見失ったように立ち止まる。
――逃げ切れるルート。階段下の非常口がわずかに開いている。
光が消える。再び備品倉庫の現実。
「こっち!」
私は立ち上がり、教室裏の狭い通路へみんなを押し込んだ。
女がすぐに追ってくる。欠片の無数の光が、私たちの影を切り刻む。
非常口のドアを蹴り開け、外に飛び出す。夕焼けの風が奇妙に冷たかった。
全力で走る。
背後で女の声が聞こえる――笑っていた。
「いいわ、その欠片。やっぱりあなたが持つべき」
外の階段を降りきり、裏門を抜ける直前、私はふと足を止めた。
胸の奥に、空白が広がっていた。
……誰かの声を思い出せない。
いや、それどころか、私がなぜ佐伯と仲良くなったのかも分からない。
その感情の欠損は、走る息切れよりも苦しかった。
裏門の先で、蒼真が立ち止まり、低い声で言った。
「梨央……あんた、もう後戻りできないぞ」
そのとき、私たちの前に黒いワゴンが滑り込んできた。
助手席の窓が開き、中から古びたスカーフを巻いた男――葛西が顔を出す。
「乗れ。命が惜しけりゃな」
ブレーキ音と共に止まる車。
背後では、スーツの女がゆっくりとこちらへ歩いてきていた。
彼女の掌には、いつの間にか六つ目の欠片が握られている――私の記憶の光だった。