第2話 失われた日付
――どうして、この人がここに。
屋上のドア口に立った男子生徒は、制服のシャツを乱したまま、私をまっすぐに見つめていた。
顔はやつれ、目には薄い隈。けれど、その瞳だけは妙に澄んでいた。
「……如月、だよな?」
名前を呼ばれて、息が詰まる。声に聞き覚えはある。
だけど――記憶が、抜けている。知っていたはずの場面が、どこかごっそり欠けている。
紗夜が一歩前に出る。
「……あなた、どこに行ってたの」
紗夜の声は、普段の完璧な調子とは違い、かすかに震えていた。
男子生徒――蒼真と紗夜は呼んだ――は答えない。ただ、私の手の中の琥珀をじっと見つめていた。
その視線に胸がざわつく。
佐伯が間に入るように私の肩を引いた。
「話は……教室で聞けばいいだろ」
けれど、蒼真の口から出たのは、場を切り裂く一言だった。
「――“交換屋”が、来る」
その言葉の意味を理解するよりも早く、頭の奥に冷たい感覚が走った。
“交換屋”――分岐の欠片を金や別の記憶と引き換えに取引する連中。都市伝説じみて語られていた存在だ。
それが、現実に?
「蒼真、どういう……」
問いかけようとした瞬間、屋上下の校舎から重い足音が響いた。
金属を打つような規則的な音。数人分。
紗夜が低く囁く。
「来た……」
私たちは屋上から非常階段を降り、誰も使わない備品倉庫に駆け込んだ。
中は暗く、ほこりの匂いが鼻を刺す。扉の隙間から覗くと、スーツ姿の男女が校舎の廊下をゆっくりと歩いていた。
制服ではない。肩には奇妙な紋章が縫いこまれた布。
「彼ら、“あっち”の人間だ」
蒼真の言葉が低く落ちる。
「俺は一週間、あいつらに“保管”されてた。……俺が見た欠片を、全部吸い取られてな」
背筋が冷える。欠片を大量に使えば、それだけ多くの記憶が失われる。
蒼真の瞳の純粋さは――もしかして、過去をほとんど失ってしまったから?
「如月」
名前を呼ばれて顔を上げると、蒼真はポケットからひとつの欠片を取り出していた。
普通より濁りが多い琥珀色。中では、私の知らない教室の情景が揺らいでいる。
「これを視てくれ。あんたしか、確かめられない」
また代償を払えというのか。
まだ忘れた記憶さえ掴めていないのに。
「……私が視たら、何かが分かるの?」
「全員が助かるか、全員が消えるか。分岐点はそこにある」
一瞬、心臓の鼓動が速くなる。
“もし”を選ぶたび、自分の一部が削られていく。それでも――
選ばないでいることは、もっと怖い。
私は琥珀を掌で包んだ。
光が、眼の奥へ流れ込んでくる。
――教室。窓際に立つ自分。そして、その隣には笑っている紗夜。
しかし次の瞬間、教室のドアが開き、スーツ姿の男女が数人入り込む。
「引き渡してもらおうか。商品を」
その言葉に、紗夜の笑顔が完全に消えた。
私の背中を押したのは佐伯――「走れ!」と叫ぶ声。
振り向くと、黒い袋の中に押し込まれる紗夜の姿が――
そこで視界が暗転した。
現実に戻ると、また胸の奥に穴が開く感覚。
私は……二年のクラス替え初日のことを、思い出せない。
そのとき何をしていたのかも。
荒い呼吸を整えながら、蒼真に視線を向ける。
彼は静かに頷いた。
「分かったろ……次は、委員長が狙われる」
扉の外で、かすかな靴音が止まった。
――その直後、備品倉庫の扉が内側へ向かって勢いよく開いた。
立っていたのは、紋章付きのスーツの女。
その手には、光の欠片が、五つ。
「詮索好きの子猫ちゃん。お迎えにあがったわ」