第1話 欠片の値段
私は、「もし」を覗ける。
放課後の廊下で、誰かが笑った瞬間にも、私は別の靴音を聴く。
――彼女が右へ曲がったら。彼が戸を叩かなかったら。あの告白は届いていたかもしれない。
そんな小さな未来の断面が、私の視界には淡い光となって浮かぶ。
人はそれを「分岐の欠片」と呼んでいた。
けれど私は、あまりその呼び名が好きじゃない。
欠片は名前のないまま、いつもそこにある。小さな琥珀の中に閉じ込められた短い光景として。
「梨央、今日もひとつ拾ったの?」
背後から声。佐伯颯――小学校以来の幼馴染。
野球部の主将で、見た目は快活だけど口数は意外に少ない。私のことを詮索しない彼は、たぶん世界で一番、この秘密を守ってくれる存在だ。
「……拾っただけ。見たわけじゃないよ」
手のひらで転がすのは直径二センチほどの琥珀色の粒。
光が差し込むと、中で小さな映像が揺れている。それは、誰かが笑うはずのない場面で笑う瞬間だった。
分岐を“再生”すると、その選択が選ばれた場合の短い未来――三十秒から五分ほど――を見ることができる。
けれど代償がある。
それを視ると、私の記憶がひとつ、消える。
夏の砂浜の匂いだったり、古い曲のメロディだったり。二度と戻らない、小さな一部。
「今日の分は、なんだと思う?」
佐伯は軽く笑う。
「……さあね。見てないし」
“見ないほうがいい”と頭では分かっているくせに、視線がどうしても琥珀に吸い寄せられる。
あの子が、どうして笑ったのか知りたい。
でも――
「如月!」
突然、廊下の反対側から名を呼ばれた。
振り向くと、黒川紗夜が立っていた。
学園委員長で、成績も容姿も完璧な彼女は、滅多に人前で感情を乱さない。なのに今は、わずかに呼吸が乱れている。
「……委員長?」
「探してたの。今すぐ、屋上に来て」
それだけ言い捨て、紗夜はくるりと踵を返す。
佐伯が訝しげに眉を寄せる。私は小さくうなずき、その背中を追った。
屋上は、夕焼けが始まりかけていた。
フェンス際に、ひとりの男子生徒が立っている。見覚えはないが、制服のネクタイが乱れている。
紗夜は足を止め、私のほうだけを振り返った。
「如月。あんたの“力”を、貸して」
息が詰まる。なぜ、彼女が知っている?
「……何を見ればいいの?」
紗夜は指先で屋上の端を示した。そこには、金属片のように光る何かが浮かんでいた。
――分岐の欠片。
近づくと、中で男子生徒が泣きながら誰かの名前を叫んでいる場面が、繰り返し揺れていた。
「これを視たほうが、彼は……助かる」
その声音に、わずかに震えが混じる。
今までなら迷う。それでも、両手が勝手に琥珀を包みこんでいた。
欠片が砕け、光が眼に流れ込む――
私は階段を駆け下りていた。
目の前には泣きそうな顔の男子生徒。そして、校舎裏の影から現れる人物。
それは紗夜だった。
「ごめん。私……」
――そこで映像は途切れる。
視界が戻ると、胸のあたりに穴が空いたような感覚があった。
何かを忘れた。
何を、だったか? ……思い出せない。
「……どういうこと?」
問いかけは、紗夜にも佐伯にも向いていた。
紗夜は口を開きかけ、そして固く閉じる。
そのとき、屋上のドアが乱暴に開いた。
風にあおられた扉の向こう――そこに立っていたのは、学園から行方不明になったはずの生徒だった。
「……やっと見つけた」
その声に、紗夜が小さく息を呑む。