今年のクリスマスは
芽衣子はファミレス出入口前にあるレジに伝票を置いた。
クリスマスディナーセットふたつ、三千三百四十円。
クリスマスイヴなんて日に付き合わせた友人の分は奢る約束になっている。
その友人は出口の内扉の向こう側で見守ってくれている。そんな見ないでよ、と振り返りたい気持ちを抑えて、芽衣子は十円玉四枚と五千円札をトレイの上に置いた。
普段はなんでもスマホで支払いを済ませる彼女だが、この店舗でだけは現金派になる。
現金を丁寧に数える彼の手を見ていたいからだ。
芽衣子は自分のものよりも少し太くて長い指の関節を見ながら、彼に見えない位置で両手の拳を握り締めた。
「千七百円お返しいたします」
彼はそう言って、接客業にしては控えめな営業スマイルを浮かべつつお釣りをトレイに置いた。
去年はもっと不慣れな笑顔だった。
知っている。その頃からこうして通っているのだから。
萩野さん。
多分去年新社会人になった、二十代前半の男性。少し華奢な印象で、普段はコンタクト、だけどたまにどういう理由でだかは知らないが眼鏡で店内で働いている。
ただの客でしかない芽衣子には、見た目と名札から入ってくる情報しか手に入れられない。
もっと社交的な性格だったら、店員さんにも気軽に声をかけて仲良くなれたかもしれない。だけど芽衣子にはそんな芸当はできないから、こうして突撃する以外の方法が思いつかなかったのだ。
芽衣子がトレイの上に置かれたお釣りを財布の中に仕舞うのを、わずかに口角を上げたままの萩野が見ている。
「……あのっ」
意を決して声を絞り出す。絞り出せた。
だけどその後が続かなかった。
勢いよく顔を上げた芽衣子を、少し首を傾げて萩野が見ている。
男の人にしては少し小柄だと思っていた。だけど百六十センチの彼女よりも、視線の位置が明らかに高い。
「…………あの」
芽衣子の脳裏を、知らない女の人の顔が横切っていく。
落ち着いた雰囲気の大人な女性。
彼女に向かって笑うのは、目の前で無機質な笑顔をつくっているひと。
「はい」
続きを促すような、返事の形をとった相槌。早く用件を、と急かされているようだ。
早く言わなきゃ。ちゃんと練習してきたとおりに。
ああ駄目だ。まだお客さんたくさんいるのに。迷惑だと思われる。
会計を待つ人が後ろにいない今がチャンスなのに。
「…………今日、お仕事何時に終わりますか」
決定的な言葉が出てこない。
自分の意気地のなさに嫌気が差してきた芽衣子だが、その様子と曖昧な言葉だけで、彼女の目的は伝わってしまった。
一瞬きょとんとした萩野だが、その表情はすぐに慌てたものに変わった。
「……クリスマスプレゼント?」
「え?」
「えっ、あっ?」
「…………あの、わたし」
何回目のあの、だ。
肝心な言葉を伝えられない芽衣子に、萩野は右の掌を見せて声をひそめた。
「……失礼しました。今日はまだしばらく終わりません」
これは、断り文句だ。
彼は告白される、と察して、される前に牽制したのだ。
牽制、された。
告白しても無駄だ、断るから、と言われたのだ。
上手くいくとは思っていなかった。
芽衣子は平凡な見た目で、歳上の男の人を惹きつけるものなど持っていない。
外見だけで判断しないで、なんて図々しい要求はできない。
だって彼は芽衣子のことなど知らないのだ。
彼女が一方的に想って店に通っていただけ。
初対面の女に告白予告などされて、歓迎するひとなんかいるはずない。
でも。
「…………ですよね」
やっぱり少しは期待していた。だから今日ここに来たのだ。
告白を喜んでもらえて、デートの約束を取りつけて。何度目かのデートで付き合いましょう、という流れになって。
そんな妄想を打ち砕かれて、思わず彼の前で泣きそうになってしまった。
「今は無理なので、十分ほど、そこのコンビニで待っていてもらうことはできますか」
「…………?」
出そうになっていた涙が引っ込んだ。
今なんと言われた? 待っていて?
「確認なんだけど。去年よくここで勉強してた高校生、で合ってるよね?」
状況がよく分からない。
目をしばたたく芽衣子に、声を低くした萩野が言葉を崩す。
客相手ではない言葉遣い。歳下の女の子に接する態度だ。
「あっはいっそれです、それわたしです」
覚えられていた。嘘みたいだ。
高校を卒業してから、髪を少し明るい色に染めた。大人っぽくなったと評判だし、自分でも気に入っていた。
変わっていないと言われた、と残念がるべきか、髪色くらいで分からなくならない程度に認識されていた、と喜ぶべきか。
「……それでえっと、今日はそういうあれで」
「はい」
何があれで何がはいなのか分からないが、ふたりは互いの言いたいことをふわっと理解し合った。
「…………今は時間がないので。十分、十五分かかるかもしれないけど」
もう深夜に近い時間だ。
新しい客の気配はないが、席を立つ客の姿が遠目に見える。
「一時間でも二時間でも待ってますっ失礼しますっ」
顔を真っ赤にした芽衣子を見て、萩野が少し横を向いた。笑われた。
仕事用じゃない彼の笑顔はいつもより幼くて、急に身近なひとに感じられた。
逃げるようにして店を出た芽衣子は、待っていた友人の首にかじりついた。
「頑張ってよかった……!」
友人は笑って抱き返してくれて、半べその芽衣子の背中を押してコンビニまでまた付き合ってくれた。
萩野は十分も待つことなく走って現れた。
ファミレスの制服の上に黒いコートを引っ掛けただけの格好で、慌てて来てくれたことが見て取れる。
十分、だと待たせてしまうかもと思って、七分経過をスマホ画面で確認してから、芽衣子は暖かいコンビニを出て待っていた。
十二月の寒さが、頭を冷やせと言っているようだ。身をすくめて右手で左手を温めながら、彼が来るであろう方向を注視する
そこを目掛けて萩野が走ってきた。
芽衣子のために、彼が走ってくれている。
もうそれだけで充分な気もしてきた。
すでに感極まっている芽衣子の前に、萩野が到着した。
白い呼気が、軽く息が上がっていることを伝えてくる。
「……えっと。俺もしかして先走ったかもだけど」
何も言われていないことに思い至ったのだろう彼は、気まずそうにそう口火を切った。
「いっいいいえ。多分正しく理解してくださっているかと」
どうしよう。さっきよりも言いづらい空気になってしまった。
今から、気持ちを伝えればいいのだろうか。
今の今まで浮かれていたけれど、彼は振るならせめて人目のないところでと配慮してくれただけなのかもしれないのに。
彼はもしかして、はっきり言ってくれないと振ろうにも振れない、と困っているのだろうか。
ネガティヴ思考に押し潰されそうになる芽衣子に、萩野が営業スマイルに近い微笑を見せる。
「こっちは一応社会人だから気になるんだけど。春に高校卒業してるんだよね?」
「はいっしてます成人してます、十九歳です」
よかった、と彼は小さくつぶやいた。
「仕事抜けてきたから、慌ただしくて悪いんだけど」
早く言え、と急かされた?
「はいっあのあの、わたし去年からずっと萩野さ」
「あっ違う違う、言わなくていい、そうじゃなくて、多分きみ、」
「新井芽衣子と申します!」
「新井さん。よく知らない奴に連絡先教えるの嫌だろうから、とりあえず」
「えっ交換」
喰い気味の芽衣子に苦笑して、萩野は冷静に続けた。
「そこはもう少し慎重になるべきじゃないかな。自分は明後日の木曜日、仕事休みなんですが。新井さんは時間ありますか?」
なぜだ。好きなひとと連絡先を交換できるなんて、嬉しい以外の感想はないのに。
あっそれとも連絡先教えたくないのは萩野のほうか。よく知らない女に連絡先教えなくないってこと。それはそうか。
そんなふうにも思ったけれど、彼は本気で歳下の女の子を気遣ってくれているような気がした。
悪い男に引っ掛からないように。えっ悪い男って誰。どこにそんなひとが。
「あります作ります冬休みですっあっでも夕方からバイトあるからできればお昼……」
「分かった。じゃあ十一時にここ集合して、お昼一緒に食べに行きませんか?」
「……いいんですか?」
あまりにも芽衣子に都合のいい展開に、信じられない気持ちが大きくなってきた。
「何が」
「さっきお店にいらしてた、黒髪の綺麗な」
一年も店に通って、萩野が客と親しげに話すところを初めて見たのだ。
よりによって告白しようと決意した当日に。
クリスマス効果でなんとなくオッケーしてもらえるのでは、なんて打算を働かせたのが悪かったのだろうか。
彼女に向けてくしゃっと笑った顔がいつもよりも幼くて、きゅんとすると同時に知らない女の人に向けられていることにショックを受けた。
だから半分以上玉砕覚悟だったのに。
「? 店長の彼女さんのことかな」
「店長さんの」
「多分」
「…………」
「えっと。悪いんだけど、もう戻らないと」
「あっはいごめんなさいっ」
芽衣子が慌てて頭を下げると、あっでもちょっと待ってて、と彼はコンビニ内に走っていって間もなく戻ってきた。
その手にはホットのペットボトルがふたつ。
「これ。プレゼントって言うにはしょぼいけど、そこで待ってくれてるお友達と」
「あっえっ、そんな」
いいから、と彼は芽衣子の手にそれを押し付けてから一歩後ろに下がった。
それから少し視線を彷徨わせると、芽衣子をしっかり見てからこう言った。
「今日来てくれて嬉しかったから。明後日、都合が悪くなっても気にしなくていいよ。気まずいならそれきりでいいし、次の約束をしてもいいと思ったら、また店に来て」
何それ。
告白しに来たのは芽衣子なのに。
こちらがお願いするのが筋なのに、なんでこのひとはこんな優しい言い方をするのだ。
理由は自分でもよく分からないけれど、料理を運んできてくれたときに見る指の形を好きになった。
何それマニアック、なんて友達に言われながらも気になって、顔もタイプだということに気づいた。
その日はコンタクトレンズの調子が悪かったのか、眼鏡で店内を歩く姿を見て沼にはまった。
高校時代、ファミレスのテーブルでプリントを広げる芽衣子たちに、計算間違ってる、と指摘してくれたこともあった。
ぎこちない接客姿に、新人さんかな、なんて思ったことがある。
オーダーミスを謝るところを目撃して、頑張って、なんてこっそり応援したりしていた。
レジに立つときの笑顔は無機質で、少し寂しい気持ちになった。
普段はどんなふうに笑うんだろうと想像を膨らませた。
初めて見た素の笑顔は見知らぬ大人の女性に向けたもので、自分にも見せてほしいと思った。
泣きそうな顔で告白しに来た歳下の女に、これ以上恥ずかしい思いをしないようにと気遣ってくれた。
なんて。なんてひとだろう。
昨日よりも、気持ちを表明する前よりも、もっとずっと好きになってしまった。
「好きです萩野さん明後日楽しみに待ってます!」
胸のなかで膨らんで苦しくなった芽衣子の気持ちが、口からこぼれ出た。
けほ、と困った顔を咳払いで誤魔化して、萩野は手を振ってくれた。
「素敵なクリスマスプレゼントをありがとう、新井芽衣子さん。俺の下の名前、遥樹っていいます。覚えてくれたら嬉しい」
一瞬で覚えた。
萩野遥樹さん。
次に会うときには呼んでもいいのだろうか。
芽衣子の元にはもう、サンタクロースが来てくれなくなって久しい。
子どもでなくなったら、欲しいものは待っていても手に入れられない。
だから今年は、自ら掴みに行った。
そして芽衣子は見事、それを手に入れることができたのだ。
好きなひとの名前と、そのひとと過ごす未来の約束。
自ら動いた今年のクリスマスは、人生最良のプレゼントをもらうことができた。