9:宴の前
深夜零時、作戦開始時刻の三十分前。仮眠室から透架の獣じみたうめき声が漏れる。ドアの隙間から様子を窺うかりなを唐津が背後から押し留めた。男はやめとけと言わんばかりに首を振り、かりなは瞳を伏せてから扉を閉じる。
「今日は特に出来上がってるな。どうする、延期するか?」
この分だと無理やり起こしたところで使い物になるかは怪しい。そんな唐津の提案に今度はかりなが首を振る。
「我々の追跡を恐れた雨ケ谷が証拠の抹消に走らないとも限りません。情報収集だけなら私単独でも大丈夫です。一応、データの扱いは慣れてますし」
「そこに辿り着く過程はどうする? 諜報や隠形のできないお前じゃ無理がある」
「そもそも今回の件は私が取り逃がして、奴の電脳を壊したことが原因ですから……」
自分の責任は自分でとる。できるできないではなく「やる」という回答に、唐津は苦笑いしながら会議室へ戻り、煎餅のような座布団であぐらをかいた。既に潜入の身支度を整えたかりなもその後を追う。任務内容については既に司令部と共有しており、一度決定したものを中止・延期するのは信頼に関わる。そうした事情も踏まえ、かりなは単独でも任務を遂行すると申し出ているわけだが、唐津の反応は芳しくない。
「見栄を気にして死ぬ事もないだろ。一度ぐらい延期したって、お前の評価は落ちねえよ」
「別に評価目当てじゃありません……今ここで雨ケ谷を逃して小型増殖炉が改良・量産されたら、以降の我々は相当な後手に回るんじゃないかと」
「巧遅は拙速に如かずとは言うが、無謀とは別じゃねえ?」
「義を見て為ざるは勇なきなり……とも言いますね。目の前が火事なのに、準備がまだだなんて言ってられないでしょう」
分の悪い賭けだと唐津は諭すが、それでもかりなは譲らない。塵劫局の存在意義は人類を脅かす禁忌テクノロジーの監視と封印。身の危険より、組織の評価より、果たすべきことがあるというのが少女の主張だった。
「なるほど……お前は『そう』だったな」
唐津はちゃぶ台にある煎餅に手を伸ばし、ばりぼりと音を立てて咀嚼する。研修で一番の成績を修めたかりなが、それ以前をどうやって生きてきたのか……上司としてその経歴を知らぬわけではない。人はそうした動機を「使命」と呼ぶ。
作務衣の襟元に煎餅の食べカスを散らかしている唐津の横で、空間投影ディスプレイが立ち上がる。そこに映るのは侵入を予定していた建物の見取り図だ。
「今の透架は自信がない。お前を認めてないわけじゃなく、例の居眠り癖でやらかす可能性をビビってるんだろうよ」
唐津は潜入先の情報をかりなの電脳に転送しながら、行けとばかりに会議室の出口を指差してみせる。
「任務開始を十五分だけ延期する。かりなは先行して扇動し、透架と合流後に目的のデータを奪ってこい。ただし合流が難しい場合は撤退命令を出す。その時は速やかに従え」
※
右腕の感覚が完全に喪失し、激痛が神経を蹂躙する。終わらない悪夢の中、言葉にならない喚き声を上げながら、透架は隔壁の前でのたうち回っている。とっくに思考は錯乱し、左手の指先が地面を掻く。行かなきゃいけない、隔壁の先には御厨がいる。
――馬鹿だね。そもそも間に合うものでもなかっただろう?
――残念だけど、秩序を守るには必要な犠牲だったんだ。
――世の中は綺麗事だけじゃないからな。
腕を無くした当時の透架に、周囲の人間はそんな言葉を投げかけた。ごもっともだと思っている。それでも娘は行きたかった。行かなきゃいけなかった。なぜって――
ぐちゃぐちゃの感情にまみれ、目眩と吐き気と涙の中で透架は目覚めた。壁の時計は深夜一時の五分前。起床時刻を過ぎていたことに焦りつつ、差し込む光を頼りに這うようにして部屋を出る。
それにしても静かだ。今日の任務は中止だろうか。かりなの気配がないことに妙な焦燥を覚える。ふらつく足取りで会議室に転がり込むと、複数の空間投影ディスプレイに高層ビルの見取り図をはじめとする各種データが展開され、その前で唐津が何やら呟いている。
「よーし、地下駐車場から侵入しろ。監視カメラやガジェットは気にするな」
まさか戦闘特化のサイボーグを単体で殴り込ませたのか。どれだけかりなの腕が立つにせよ、多勢に無勢にも程がある。無茶な判断だと詰め寄りかけた透架に唐津は一瞥すら寄越さない。
「おはようさん。誰かが起きねえから、始めちまったわ」
「……かりなを単独で動かしたの?」
「業務時間が始まったからな」
不快な目覚めが輪をかけて苦々しくなった。だったら叩き起こすなり、何なりしろと。激昂した透架が会議室の柱を蹴ったところで、何も表示されていない無機質なバイザーが向けられた。
「毎日そうやってしんどくないか?」
透架とて好きでやってるわけではない。毎日悪夢を拝むせいで、眠っても休んだ気にならないし、寝起きのテンションは最低だ。そんな日々を一年ほど繰り返せば、常時気力の数割が欠けているような感じになる。
後輩が危険な任務に放り込まれたのも、自分のせいだと言われれば七割ぐらいは納得する。しかしもう三割は我慢がならない。眼前の目隠しデブは何のためにいるのか。言いたいことが頭の中でまとまらないうちに、唐津は言葉を続けた。
「あんまり酷いなら、お前の記憶を消したっていいんだぞ」
文字面だけなら提案とも憐憫とも圧力ともとれるが、あまりに淡々とした口調かつ、男が顔の一部を隠しているものだから、真意の読めない不信感が倍増する。透架が見る悪夢とそれに纏わる記憶を「消す」――基本、こうした記憶操作は本人の同意なしには行われないが、上司がどうしても必要と判断した時には強引に遂行されることがある。それとて知りすぎた機密情報の消去が大半であり、トラウマや精神的な問題による記憶消去の例は稀だ。聞き捨てならないとばかりにセルリアンブルーの目が座り、暫しの間を置いてから剣呑な口調で問い返す。
「それっぽく言うけど、要するに使いづらいだけでしょ。仕事に穴を開けてることへの苦情なら、最初からそう言ってくれる?」
噛みつくような透架と数秒ほど向き合ってから、唐津はため息をついた。
「……お前はこれからどうやって生きていくつもりだ?」
そんな真面目な説教をされても困る。金持ちのイケメンに養われたい……なんておふざけが通じる雰囲気でもなく、透架は唇を尖らせた。不眠症を拗らせてノイローゼになろうと御厨が戻るわけじゃない。かりなが単独で動いているのは透架に起因しており、今のままでは透架も周囲も消耗する。結局のところ睡眠障害をなんとかしない限り、マトモに仕事を続けるのは難しい。塵劫局を辞めるにしたって、過去に知り得た機密情報の処分は必須だ。何より透架の「透明化」は悪用された際の危険性から準禁忌の扱いを受けている。無計画に野に放たれて良いものではない。
「生きていくもクソもないじゃん……行けと言われたら行くし、死ねと言われたら死ぬのが仕事だもの。これからも何も、今生きてるのだって単なる結果論だし、なるようになるとしか言えなくない?」
世界の全てに毒づく心地で刹那的な人生観を語ると、透架は踵を返してロッカールームへ向かう。物心ついた時から道具として生きてきた自分に、取り立てて執着する過去など持ち合わせていない。塵劫局は人類守護という大義を掲げ、必要とあれば今日も誰かを肥料にする。こうして社会の平穏は保たれるのだ。くそったれ。
[どこへ行く?]
[潜入ルート出して。どっちにしろ行かないとまずいんじゃないの?]
経験豊富なクソ上司の完璧なご判断であり、結果がどうなろうと知ったこっちゃない……と言いたいけれど、自分の体たらくでかりなが潰されたとなれば堪ったものではない。問題は潜入先まで些か距離があることだが。
[裏口にバイクを用意した。情報共有は運転中に済ませておけ]
[……]
用意周到。なんだかんだ言って、どうせ透架がやると思っているのだろう。良いように使われている気がして、イラつきながらロッカーを開き――。
目の前に、よく冷えたコーラが一本。
[寝起きには炭酸と糖分が欲しいだろ?]
[何これ。経費で落ちるの?]
[もちろん。部下にはいい仕事をして貰わないとな]
ロッカー内部には任務時の武装が一通り揃っている。棒手裏剣や苦無、トラップ用のワイヤーに各種グレネード弾。そしてメンテナンスの完了した義手。戦闘用の装甲やギミックを備えた青黒デジタルカモフラージュ柄のボディスーツに着替え、その上にいつものアウターを羽織る。どうせかりなが散らかしているのだから、お行儀よくする必要もあるまい。
支度を終えたところでコーラを流し込み、給湯室のシンクに空き瓶を残した。嫌というほど眠っていることもあり、徐々に頭が冴えてくる。
やがて裏口で一輪バイクのヘッドライトが輝いた。非公式情報機関・塵劫局。サイボーグ忍者の仕事が始まる――。




