33:それから、ここで
春の初め。煙突から昇っていた煙が消えた。火桜の湯はモーニングデーの営業を無事に終え、法被姿の少女が脱衣所のカゴをひっくり返している。お客さんの忘れ物チェックが終わったら、湯を抜いた浴場の掃除が待っている。真冬だろうと汗が吹き出る重労働だが、身体を動かすのは嫌いじゃないし、古くともぴかぴかの浴場を見れば満足感がある。
というわけで。飛崎かりなは大怪我から驚異的なタフネスで復帰し、今日も真面目に働いている。
店内を徘徊する茶坊主型業務ロボが、冷蔵庫にドリンクを補充する。古式ゆかしい牛乳の他、コーラや炭酸水がキンキンに冷やされている。いずれも瓶か紙パックだ。冷蔵庫のドアには手書きのカラフルなポップが添えられている。スタッフのおすすめは瓶のコーラだ。手間こそかかるが口当たりがいい。
受付カウンターの事務端末で小太りの男が書類を作っている。「報告書」というタイトルに今日の日付を併記すると、その内容をざっと通して確認する。やがて顔の上半分を覆うバイザーに青いマルが点灯し、保存された書類は司令部へと送信された。早く性格に。唐津融の処理能力は事務仕事にも発揮される。
書類の概要は第一級テックテロリスト・雨ケ谷滲を始末し、小型増殖炉を封印するに至った顛末である。
この報告により透架にかけられたBABELへの内通疑惑は解消される。ただしその功績は、出頭命令に即応せず、無許可で無尽桜に侵入したペナルティと相殺された。つまり何もなかったというところに落ち着く。
「唐津さん、先輩はいつ戻りますか?」
「ぁ、もう帰ってないか? 司令部に行って帰ってくるだけだろ」
「書類の手続きだけですよね。それにしては遅いのではないかと……」
透架は今回の件について始末書を提出するため、朝イチで司令部へ出かけている。時刻は既に正午前。司令部は交通機関を使って片道二〇分程度。お偉いさんから怒られているならまだしも、何かの間違いで記憶を消されていたら――というかりなの心配に、唐津とよかろうもんはあり得ないとばかりに首を振る。
「ったく、しょうがねえな。大変だろ、やつが戻ってくるまで男風呂の掃除でも手伝うか?」
「オソウジ、オテツダイー!」
「あ、いえ……ちょっと洗剤補充してきます」
バックヤードへ向かう途中、かりなは休憩室の側を通りがかった。外の景色が見られるよう、通路に背を向けたリクライニングチェア。そのヘッドレストから濃藍色の髪がはみ出ている。もしやと近づいてみれば、すやすやと安らかな顔で眠る姿がある。
心配して損した。
魂が抜けそうなほどの盛大なため息に続いて、かりなはリクライニングチェアの座面下に手を伸ばすと、角度調整ロックを密かに解除した。背もたれの角度が急に跳ね上がり、驚いたサボり魔が目を丸くして飛び起きる。
「ぴゃへぇえぇえぁああッ!?」
奇声を上げながら目覚めた娘は、何が起きたのかわからずぽかんとした顔で周囲を見回す。芹沢透架は今日も平常運転だ。目の前で仁王立ちに構えた後輩に気づくと、能天気な笑顔を見せながらへらへらと笑う。
「かりな、おはよー!」
「先輩、少しは掃除手伝ってください」
「ぇー。寝てて構いませんから……って言ってたじゃん」
「数日前の話を引っ張らないで貰えませんか?」
……気まずい。透架は視線を左右に泳がせながら電脳を検索し、サボりの口実を捻出する。
「実はまだ膝の調子が……」
「一昨日のメンテで新品に変えたばっかりじゃないですか」
かりなの圧に耐えきれず、バックヤードで洗剤を持たされた透架は先に男風呂へと向かう。その途中、サイボーグ工房からやってきた唐津と鉢合わせになった。
「なんだ、戻ってたのか。サボりは見つからないようにやれよ」
「上司としてどうなの、その発言……それより、例の話は考えてくれた?」
「何の?」
「こないだ出したじゃん。辞表」
心当たりが思い付かず、一瞬バイザーに「?」マークを表示した唐津だったが、透架の説明に首を振る。
「お前ね、辞表の書き方ぐらいちゃんと調べて来いよ……封筒にも入れず、紙切れに今月で辞めまーすって書いただけで通るわけねえだろ。頭ん中、どうなってんだ?」
「いや、非公式な情報機関だとありかなーって。忍者とかよくバックれてそうだし?」
「情報機関でも忍者でも最低限の社会常識は身につけてください……そもそも辞めたいって言って足を洗える業界じゃねえぞ」
「それは判ってるけど、このまま続けられるのかなぁって疑問がさ」
説教の真っ最中にかりなが戻ってくる。会話を小耳に挟んだのか、二人の顔を見比べてから口を噤んだ。唐津のバイザーに「きまずい」の四文字が浮かぶ。もっとも当のかりなはそんなことを気にする様子もなく、透架に冷めた視線を向ける。
「別にどこで働くのも先輩の自由ですし。好きに辞めて、再就職して、勝手に死んでくればいいんじゃないですか?」
「ちょっ、ひっど! 別に嫌になったとかじゃなくて、やっていける自信の問題って言うか……」
「正直、私も一人で男女両方のお風呂掃除は自信ありませんけど」
「あーもう、やるやる。手伝うってば!」
にべもなく言い捨てたかりなは、よかろうもんを連れて男風呂へ向かう。唐津は透架の提出した紙きれを引っ張り出すと、くしゃくしゃに丸めて屑篭に放り、追いかけろと言わんばかりに浴場の方向を指し示す。
「御厨のことでキレて、かりなのことを案じるお前でいい。特務部に戻す予定もねえし、今のまま働け」
「今のままって、唐津さんはこれからも場末のサイボーグ銭湯やってるつもり?」
本来であれば唐津は幹部として上層部に居てもおかしくない。御厨との縁で面倒を見てくれたことを察しているものだから、この場所が今のまま続くことに一抹の疑問を抱いた。唐津は受付カウンターの内側に隠していたミカンを取り出しながら気楽な調子で応じる。
「そうだ。司令部と違ってうるさくねえし、お前らを手足に働かせて、俺は鵜匠みたいにのんびり暮らせるってわけだ」
「ちぇー……あたしみたいな不忠者が厄介なら出ていこうかな、って思ってたのに」
かつてのように忠実な特務部隊員に戻ることは難しい。そんな本音を付け加えて視線を逸らす透架の様子に、組織内の立場を気にしているのかと唐津は笑う。
「いいじゃねえか、陰口叩かれながら組織にぶら下がる鼻つまみ者も面白いぞ。なんなら俺がメンターになってもいい」
「唐津さんの場合、めんどくさいけど実力はあるから渋々泳がされてる感じなんだよなぁ」
「それの何が悪い? 組織の養分になるんじゃなくて、利用すんだよ。他に行くところが無い限り、ここはお前の居場所だ」
店内の掃除と湯の入れ替え準備を済ませ、透架とかりなは夕方の営業までフリーになった。
快気祝いと称して、唐津は黒電話で回らない寿司屋の出前を頼んでいる。自分が食べるわけでもないのに、よかろうもんが喜びの万歳三唱を始めた。
サイボーグ銭湯の裏口で濡れ縁に腰掛けた透架は、ふわりと人目を憚らない大欠伸をする。雨ケ谷の件が片付いた後、塵劫局直轄の医療施設で治療を受けた。その際、カウンセリングを受けろと方々から言われてうんざりした挙句、傷が治りきる前に抜け出し今に至る。
その間の記憶はおぼろげだが、あれから例の夢を見ていない。治ったと知れれば仕事への復帰を強いられるのは必定。かと言って、本当に治ったという保証もない。ある日突然、寝落ちする可能性だってあるのだ。どうしたものかと思案を巡らせた矢先、横合いから声が届く。
「何、仕事辞めようとしてるんですか。私に相談もなく」
振り返れば、かりなの姿が見えた。左右の手に湯気の立つマグカップを携え、そこからお菓子のような甘い香りが周囲に広がる。
「え、それはあれ? 私がいなくなると寂しいとかそういうやつ?」
「いえ、別に。先輩がやってたことの引き継ぎとか色々大変じゃないですか」
期待を込めた冗談にめちゃくちゃ真顔で返された。もはや透架は口ごもるように頷くしかない。あれからかりなの機嫌が悪い気がする。雨ケ谷を始末した功績がチャラになったことで、かりなが司令部に栄転する可能性が消えたと言えばそうだし、この数日でハチャメチャに働いて何も無かったわけだし、良かったと言える要素など考えて見れば何もない。
かりなは透架の隣に腰を下ろすと、片方のマグカップを差し出した。中身はシナモンの効いたホットチョコレート。カップから立ち上る湯気に埋もれて黙っていた両者だが、先に口を開いたのはかりなだった。
「どうして黙っていなくなったんですか」
「はぃ?! いや、まぁ……あたしのことで迷惑かけたくなかったし」
「それにしたって通信まで切ることないじゃないですか」
怒ってる。
正直、相談すべきかわからなかった。困らせたくはなかったし、その先にある相手の拒絶を恐れたことも否めない。情が移るからこそ、失うのが怖くなる。大切だからこそ、黙らざるを得なくなる。どう説明したものか迷う透架をよそに、かりなの質問は続く。
「先輩は……私が来なかったら、どうしてたんですか?」
いつかどこかで聞いた問い。正直なところ九割は死にに行ったようなものだ。透架は本音をはぐらかし、いつもの調子で茶を濁す。
「うわー、その質問を返しちゃう? そりゃぁ、BABELで今頃年収5倍……」
「嘘つき」
怒られた。
観念したように肩を竦めた透架に、かりなはそっぽを向いて視線を伏せながら告げる。
「正直、先輩が困っている時に頼られなかったのは凹みましたけども。私の信用なんてその程度なんだなって」
「ごめん。そりゃ、かりなが居たらめっちゃ助かるだろうなって思ってたけど……」
「まぁ、二足三文で売られてた後輩ですから、使えねーなって思われても仕方ありませんね」
「いやいや待って! そういうツッコミに困る自虐ネタはやめて!?」
信頼していないわけじゃない、むしろ逆だ。それでも頼りたくなかったのは……
「でもさ。あたしも情けないところは見せたくないわけよ。今回は先輩の意地に免じて……ってことで! 次からはちゃんと相談するからさ」
透架は困ったように笑うと、両手を合わせて詫びながら頭を下げた。二人の間に沈黙が積もる中、上目遣いに後輩の様子を探る。かりなは深くため息を漏らし、拗ねたように呟いた。
「これでも……追いかける背中ぐらいは、守れるようになりたいんですけど」
「……へ?」
二人並んでチョコレートの香りに癒されながら、御厨のことを思い出す。透架が追いかけたかった背中はもうない。その代わり、この背中を追う後輩がいる。
あの日。御厨は雨ケ谷の存在を知りながら、透架を先に帰還させた。当時は残されたことがショックで、いなくなったことが悲しく、何もできなかった自分に絶望した。
だけど今、その理由がわかった気がした。
後輩の未来を守るために。死地に行く背を追いかけてこないように。泣きそうになるのを湯気越しに堪えたところで、かりなの容赦ない指摘が重なった。
「だいたい一緒に死ねって言った直後に、辞表書いて逃げ出すとかあんまりですよね」
「ちょっ、語弊ありまくり。死ねなんて言ってないし、あくまであれはお願いだし!」
「私が聞きたいのはそっちじゃなくて辞表の件です。そもそも次は相談するって、『次』があるんですか?」
言葉に詰まった。未来のことを約束するような勇気はない。ただ。
「どうだろう……でもクビにはならなかったし、しばらくはここにいるからさ?」
せめて隣にいられる間だけ。
時としてその手を引きながら、クソッタレな日々をちょっとずつ寿ぐのも悪くない。
生きててよかった。
掛け値なしの本音を呟き、隣を見る。あれだけ勢いよく語っていたかりなは、いつしか項垂れたまま微睡んでいる。まだ疲れが残っているのだろう。
柔らかな日差しの下。透架は後輩の頭を自分の肩へと引き寄せ、背筋を伸ばしてその重さを受け止めた。先輩風を吹かせながら少女の寝息を聞く。あれだけ大人びていたその横顔は、年相応の無邪気さを覗かせながら穏やかに笑っている。
傷つき、汚れ、それでも生きる。
春の始まり。業務日報は綴られていく。




