30:極彩色のアポトーシス
雲と雪が冬の緋桜市を覆う。日の出を迎えても辺りは夜のように暗く、極寒の街にわざわざ出かける物好きはいない。静寂と無彩色で作られた街並みを超えて、水墨画のような桜並木を駆けていく人影が一つ。かりなである。向かう先は無尽桜の中央管理棟。塵劫局の戦闘ユニット群が連絡を絶った場所である。
[管理棟の内部構造ってわかりますか?]
いくらかりながサイボーグでも全速力で疾走し続ければ息が持たない。堪えきれずに立ち止まり、氷点下の空気を貪りながら唐津からの情報を待つ。大寒波に伴う停電のせいで電脳の通信状況が悪い。音質はまだしもレスポンスに遅延が生じるのは困りものだ。一分一秒を争う現場では致命傷になりかねない。二秒の間を置いて中央管理棟の設計図を受信するが、そこに音声はない。送受信できるデータ量に著しい制限がかかっているのだろう。これ以上の指示や援護は期待できない。
塵劫局の元幹部といえど、雨ケ谷は技術者畑の出身だ。カタログスペックで比較すれば、元特務部員の透架が遅れをとることはない。しかし出発前に聞かされた唐津の見立ては異なる。その根拠は小型増殖炉の存在。透架が得意なのは奇襲や暗殺であり、正面から全力でぶつかる状況は相性が悪い。特に圧倒的な攻撃力や防御力で迫られれば、なす術なく潰されてもおかしくない。
建物に近づいたかりなは時折響いてくる物音に気づいた。透架が失踪してから半日以上が経過している。少女は手にした刀の鞘を祈るように握りしめ、湿った雪を蹴散らすように走り出す――。
遠い過去。かりなは掃き溜めのようなスラム街で二卵性双生児として生まれた。実家は貧しく日々の食事に事欠くような暮らしだったが、両親なりに必死で育てようとしてくれたのも確かだと思っている。
しかし長じるにつれて双子の片割れはある才能を評価され、それを支える金策のためにかりなは売られることになった。他者から認められず無価値と規定された存在は、価値のある存在から踏み台にされ、その尊厳は無視される。
少女はこの傲慢な社会に怒り、強欲な大人を憎み、無価値な自分に絶望している。それでも。
――価値がないから売られたなんて言わないでよ。
日の傾きかけた河川敷。金色に差し込む日差しの中、その人は濃藍色の髪を揺らしながら笑った。
こんな世界で自分を認めてくれた人がいる。
戦う理由など、それだけで十分だった。
※
地下三階、コントロールセンターが設置された階層。満身創痍の透架が落下して土埃が舞い上がり、施設中に轟音が響き渡った。途中階の通路に所々で引っかかり、落下時の衝撃を緩和したことで即死こそ免れるものの、全身の骨格が軋んで内臓が悲鳴を上げる。折れたのか壊れたのか右膝から下の感覚がなく、起き上がることすらまともにできない。
「ぅ、っく…………がァ、ッ! … …は――」
うつ伏せに倒れた娘の肩から背中がびくりと痙攣し、次いで血の混じった胃液を吐いた。これまでに蓄積した負傷と疲労で意識が混濁している。手足の温度が感じられず、もはや不快を通り越して寒い。これは本気で死ぬかもしれない。
上層階から金属床を踏む音が聞こえてくる。流石の雨ケ谷も飛び降りて追いかけるほどアグレッシブではなさそうだが、足音が徐々に近づいているのは確かだ。
ナノマシン活性による青い光が回路のような模様を描こうとするが、娘自身のアクティブな生体反応と連動しているのか、その光量は掻き消えそうなほどに弱々しい。霞む視界の先、使いそびれて転がった爆散苦無が見えたものの、伸ばした左手は指先が触れかけたところで限界を迎えた。
じわりと娘の輪郭が揺らぎはじめる。
意識が途絶える前に「透明化」を発動させ、敵の手に掛かるより先に姿を消して死を選ぶ……特務部の頃に叩き込まれた習性だ。
いつだろう――前にもこういうことがあった気がする。曖昧な記憶と思考が娘の意識を塗り潰していった。
※
己を呼ぶ声がする。
電気ボックスがあちこちに配され、赤や緑のケーブルが壁や地面を生物のように這い回る異国の裏路地。青や黄色のネオンサインで彩られた区画の最奥、マンホールを下りた先には暗く湿った下水道が広がり、生命と欲望が腐敗した空気が充満する。
においや手触りは不愉快極まりないのに、その色合いだけは鮮やかなもの――透架にとって死とはそういう印象がある。
「君は都合が悪くなると、かくれんぼに走るみたいだな」
ぎらぎらとした彩度の視覚情報に御厨の声が聞こえた。電脳がバグっている。幻覚とか幻聴とか走馬灯と呼ぶものだとしても、それはそれで悪くない――。
「隠れたいというより、消えてなくなりたいんだけど」
「雨ケ谷のやつはまだまだ元気そうなんだが、つまり白旗ってことかな?」
「……ごめん」
「君がくたばりそうだった時も必死で探したんだがなぁ、俺の努力も水の泡か」
前言撤回。走馬灯でイヤミを言われるなんて、どういうシチュエーションなのか。あの時のことを引き合いにされたら、泣き言も反論も言えやしない。聞いたところによると、あの時自分は既に死んだものとされ、上は捜索も回収も考えていなかったらしい。
……なのに。
「だから謝ってるじゃん。まさか探されるなんて思わなかったし……死んでたら探し損だと思わない?」
「逆だな。『探さず後悔する』損より、よっぽどマシだと思うが」
自分が死んだら後悔してくれるのかと、ある種歪んだ喜びを抱いたのは、きっと透架自身が卑屈だからだ。うつ伏せに倒れている娘の傍らで、御厨が膝を折りながら座り込む。
「もう、仰るとおりですとしか言えないわ。久しぶりだってのに何しに来たの。お迎え? それともお説教?」
「今、消えてなくなったら――君は絶対に後悔する」
馬鹿言え。あたしの人生なんてとっくに後悔祭りだ。一年前、彼を置き去りにしたあの日だって――言い返そうとした瞬間、極彩色の景色が砂嵐のように消えていく。全てが粒になる直前、御厨の声だけが残された。
『戦ってくれる人を置き去りにする』損は、取り返せないからな――?
※
目が覚めた。冷たく埃っぽい地面が頬に僅かな振動と音を伝えてくる。十数メートルの距離から誰かが近づいている。多分雨ケ谷だ。階段を経由して気長に歩いてくるのは、最早逃げられる心配はないと考えているからだろう。吹き抜けの中央で倒れ伏した透過を見つけると悠々と歩み寄り、まずは手の届かなかった爆散苦無を足先で入念に払い除けた。床の上を滑る刃が乾いた金属音を立てる。
「ゲームセットだ。お前にはやってもらうことがある」
継戦能力が尽きた相手などいくらでも蹂躙できる。雨ケ谷は突っ伏した透架の顎に爪先を差し込んで持ち上げ、意思表示を促した。仮に抵抗されたとしても、彼の膂力なら腕を折るのも、頭を踏み潰すのも容易いことだ。
娘は苦悶混じりに呻きながら、右手の五指に力を込めて上体を上げると、憎悪に満ちた双眸で男を睨みつけ、左拳から伸ばした親指で地面を指し示してみせる。地獄に堕ちろ。こいつらの靴底を舐めるなど真っ平御免だ。透架による無言の抵抗をガン無視し、雨ケ谷は一方的な要求を突きつける。
「強情なやつだ。お前の『不可触』で小型増殖炉をここの地下に沈めてもらう」
増殖炉の再起動が難しいにもかかわらず、どうして一度停止した無尽桜を狙ったのか。隔壁の内部は有害ナノマシンで満たされ、ギリギリの内圧を保っている。そこに小型増殖炉を放り込めば、圧力の均衡が崩れるのは明白だ。
「……やるわけないだろ。頭沸いてんの?」
「お前がここで死んだところで、BABELが電脳を回収すれば機密の解析は可能だ。同様にナノマシンの分析を進めれば、透明化や物質透過についての情報も収集できる」
――遠く彼方で靴音が響く。
「研究者って変態の割合高くない? マジで気持ち悪いんだけど」
「なぜ死に向かう。唐津や御厨への義理立てか? いずれ『不死』が実現化すれば、死は意味を失う。生前のデータを収集・再現することで死んだ者が蘇る時代も来るだろう。お前だって御厨が戻ってくるなら迷うんじゃないか?」
――靴音が徐々に大きくなる。
セルリアンブルーの瞳が揺らぐ。もし、御厨が、戻ってくるなら――迷わないと言えば嘘になる。だが、そうして作られた彼を手放しで受け入れ、喜べるほどおめでたくも無い。
「結論から言えば、お前の死に意味も価値もない。それを理解した上で殺されたいなら止めはしないが?」
勝手なことを言いやがる。土下座して命乞いした途端、人生に意味や価値が生じるとでも言うのか。今すぐ唾を吐いて、中指を立てて、ぶん殴りたい。綺麗事を口にしている連中が、同じ声で命を値踏みしている。その態度が気に食わない。
「うるさいな。だったらあたしが死んだ後に、勝手に解析でもなんでもしろっつーの。アミノ酸でもナノマシンでも出てくるんじゃね?」
――その靴音は確かに近づき、やがて――。
雨ケ谷は諦念と憐憫の眼差しを送ると、透架の頭蓋を踏み砕くべく靴底を持ち上げる。その瞬間、二人の頭上高くから床を蹴る音が爆ぜた。
煉瓦色の髪を躍らせ、赤い閃光を纏った姿が降ってくる。抜き身の機械刀を大上段に振りかぶり、雨ケ谷の頭上から強襲する靴音の主は――飛崎かりな、その人。




