28:死線の先
音のない部屋だった。動くものもほとんどない――それも無機質に書き換わるモニター内のタイムスタンプと、部屋の中央に座した男を除けばの話である。この気温では呼気の白さで居場所が判明する。
透架は雨ケ谷の後方二メートルの位置に佇むと、呼吸を止めて様子を窺う。左手には苦無が一本。頭、頸部、動脈、心臓、殺すとしたらどこを狙うか?
一階で戦闘ユニット群の動きを封じた際、義手に収納していたワイヤーの多くを消耗した。数時間前まで非番だった透架に、テロリストとドンパチやるような装備はない。
かくれんぼの達人ほど存在を感知されることに敏感だ。さっさと始末したいのは山々だが、この期に及んで罠や偽物だったら……という疑念が透架を躊躇させる。これが御厨なら呼吸の癖や筋肉の動き、あるいは体臭といった外見以外の情報から本人を特定できるのだが、透架にそのような機能は搭載されていない。そんな娘の逡巡を察したのか、雨ケ谷は椅子から腰を上げつつ告げる。
「そうして迷ううちに機を逃す。特一級の標的に対する態度じゃないな」
投げかけられた声にぎょっとした。まさか自分の姿が見えているのか――苦無を握りかけた左手が緊張で強張る。透架は室内を見回し、電源の入っていないディスプレイを凝視した。真っ黒の画面に室内の光景が映り込んでいるが、そこには雨ケ谷の姿しか見られない。「透明化」は問題なく稼働している。
「『無骸』――腕はいいがまだ若く、危険な状況ほど判断に感情が混じる。特務部内での評価通りだな。まぁ、古い情報かもしれんがね」
事前に記憶していた情報と声紋パターンが一致した。雨ケ谷本人である。ついでに特務部の評価も本人とそこそこ一致しているが、それはさておき。
塵劫局において「特一級テックテロリスト」という分類は人類の敵であり、問答無用で処分するのが共通認識である。その最たる理由は思想犯であることに尽きる。テクノロジーで人類社会を脅かすという危険思想を排除し、社会の治安を維持するというのがその言い分だ。
「一つ忠告しておくが、いるのは判っている。楽にして貰って構わない」
そう言われたところで、はいそうですかと姿を見せるわけにもいかない。気配を読んで漠然と話しかけただけなのか、そもそも透架の姿が丸見えなのかで今後の対応が全く異なる。沈黙を貫く透架に、雨ケ谷は背を向けたまま制御室に並ぶコンソールを撫でた。
「知っての通り、ここは本来ジオエンジニアリングの設備でな。環境調整のナノマシンを無限に生成して気候をコントロールする……あの日、試験稼働に成功していれば、この街は穏やかな四季を楽しめる楽園になっていただろう」
狙うなら心臓の裏側か頚椎――無防備な背中を眺めていた眼差しが好奇心に揺らいだ。殺せばいいのに、話に興味が沸くと手が鈍る。危険な状況ほど判断に感情が混じる、という古巣の評価は伊達ではない。
とは言え、凍みるような室内で息を潜め続けるのも限度がある。そもそも楽園をぶっ壊したのはお前だろうという感想を飲み込み、暗殺者は続く言葉を待つ。
「ここの増殖炉に不正なプログラムを読み込ませ、生体に有害なナノマシンを散布したらどうなるか? そう考え、実行に移した者がいた……その通りになれば、街の住人は生身の人間から死に絶え、生き延びるために皆がサイボーグ化を進めていただろう……だが計画は頓挫した」
かれこれ呼吸を止め続けること数十秒。それでも意識を保っていられるのは幼少時から重ねた訓練の賜だ。しかし寒さのせいか、はたまた過去の記憶がぶり返したのか、右肘が嫌に脈打つ。透架は奥歯を噛みしめながら、苦無を握る左手に熱を込めた。
あの時プログラムされた有害ナノマシンは、生体にのみ反応する仕様だったと聞く。つまりサイボーグ化率の高い個体ほど影響は少ない。雨ケ谷の目論見が当たれば、汚染地域の住民は生きるためのサイボーグ化を認めざるを得ないし、その暁にはサイボーグ化率を制限する現行法について、見直しや撤廃の声が出てくる可能性もある。まったくテロリストの癖に自己主張がまわりくどい。
「亜夜乃も言っていたが、塵劫局の危機管理能力は高い。いかなる状況でも最適解を導き遂行する。あの日も配備されていた中で最も機動力の高い御厨を選び、増殖炉の管理コンソールへ向かわせた。そして増殖炉が本格稼働する前に隔壁を用いて強制封印する……これも被害を最小限にする合理的な判断だ」
話が長すぎだと悪態をつきたくなる。雨ケ谷がよそ見をしている隙に、ちょっとぐらい息継ぎをしてもいいんじゃないか……と思いかけた矢先、男は突如透架と相対するような向きで振り返った。サングラスで視線を隠した雨ケ谷が意味深な笑みを浮かべながら、今度は壁面のモニターに映る四人を指し示す。
「しかし犠牲を厭わん組織風土は昔から変わらんな。あの日のお前は御厨の指示で命拾いしたわけだが、本人はその律儀さで捨て駒にされ、居合わせた私も危うく埋められるところだった。私のことを報告しなければ、彼も無事に戻れたものを……」
御厨の律儀さという言い回しに、こめかみの血管がずきりと脈打った。
職務に背いて雨ケ谷の存在を無視していれば、御厨は今でも生きていただろう。だが見逃していたら、この街は、日常は、世界は、人類社会の変化を目的とした稀代のテクノロジー犯罪によってメチャクチャにされていたかもしれない。
あの日、彼は使命を選んだ。
その選択はきっと正しかったし、透架も尊重している。しかし騙し討ちのような塵劫局の態度には今でも疑問を抱いている。
かくして呼吸を殺すのも限界を迎えた。早く殺れと本能が囁き、靴底が音もなく床を蹴る。そこから壁と天井を経由して、死角となる雨ケ谷の頭上へと回り込む。苦無の刃が狙うのは回避の難しい上空からの奇襲。その瞬間――。
「お前は何も思わんのか?」
首を回した雨ケ谷が頭上を見やり、刃を掠めたサングラスが弾け飛ぶ。その奥に隠されていたのは赤く光る無機質な機械眼。恐らくは熱探知機能を備えたサーマルカメラ。それこそ最近変えたばかりだろう、手術直後と思しき眼の周囲は生々しく腫れ上がっている。
雨ケ谷は嗤い、透架は舌打ちをした。この男は最初から透架の一人我慢比べを眺めていたというわけだ――酸素不足の脳から殺意を絞り出しながら、娘は雨ケ谷の頸部から背骨に至るラインに沿って凶刃を突き立てる。人間はもちろん、大半のサイボーグも屠り得る一撃必殺の暗殺術。しかし雨ケ谷の唇は執拗に動く。
「塵劫局は大義こそ掲げるが、その下にある個人の幸福を軽んじる。そこに……」
呼吸を止めていた透架は「透明化」を解除し、腹の底に溜め込んだ熱を白く吐き出した。全体重を乗せた刺突により、苦無の根元まで雨ケ谷の頸部に食い込んでいる。冥土の土産とばかりに手元を捻って背骨を刳るのと、男の言葉が終わるのはほぼ同時のこと――。
「お前の居場所は、ない」
今現在最もセンシティブな話題に、透架の表情が消えた。
頚椎は神経を通じて脳と肉体を繋ぐ極めて重要な器官であり、損傷を受ければ起き上がることなど難しい。ところが頸部を貫かれたまま男は踏みとどまり、さらに苦無を握った透架の左手首を強く掴み返そうとする。
「いッ?!」
頭の片隅で警鐘が鳴る。透架は掴まれた手首に体重を預け、そこを支点に身を翻すと、両腿で雨ケ谷の腕を挟みこんだ。そこから膝裏と足で男の顎と上半身を捕らえて、肩の位置を固定する。
いかにサイボーグでも骨格の構造は人間のそれに準じており、関節を破壊すれば後はそう簡単に動かせない。そのまま彼の手首を抱えて背を反らし、肘の関節を逆側に引き伸ばすことで、いわゆる飛びつき腕十字の形に持ち込める――
「ぶっちゃけ禁忌が云々なんてどうでもいいし、あんたの事情も御愁傷様。けど、それで何万人も殺されたら堪ったもんじゃねーし!」
「見ず知らずの一億人と大切な一人を天秤にかければ、後者を優先したくなるのが人の情だ。お前は社会のためと言われて大事な者を生贄にできるか? 俺を始末するために御厨が捨て駒にされ、あげく無駄死にだったことを納得できるか――?」
怒鳴り返すや否や、雨ケ谷は靭帯が伸びかけた肘を腕力だけで折り畳む。それから透架の全身を引き寄せて振り回し、室内のコンソールや機材目掛けて滅多打ちに叩きつけた。
「がァ、ッ! ……つ、ぐ……ア、ぁあッ!」
常軌を逸した膂力。パワー型の戦闘サイボーグでもここまでの出力は見られない。腕を掴まれ関節技で返したのはいいが、この分だと雨ケ谷の腕を折るより先に、透架の全身が複札骨折しかねない。
二度目の我慢比べでも先に音を上げたのは透架だった。被弾を堪えきれずに腕十字の戒めを緩めたのと同時、掴まれた手首を起点に紫紺の燐光が瞬く。
「!?」
次の瞬間、雨ケ谷の握力をすり抜けた透架が、遠心力によって隣室に繋がる窓へと突っ込んだ。頭からガラスを粉砕し、猛烈な慣性に任せて数メートルほど吹っ飛んで止まる。手応えを失った男の面持ちに僅かながら動揺が浮かび、やがて納得したと言いたげに頷いた。あらゆる物体を透過する未解明活性現象「不可触」――近接戦闘における利用方法の一つ。
「い、っ……」
まともな受け身すら取れず、衝撃に咳き込みながら身体を起こす。透架はガラスの破片を振り払いながら、窓の奥に佇む白いシルエットを睨みつけた。視界の先には機械眼が赤く不穏に明滅している。
透架の「透明化」は光学的なアプローチで姿を隠すが、熱を検知するサーマルカメラには通用しない。妙だと思ったのは確かだが、必死で息を止めていた自分の馬鹿らしさに凹んだ。雨ケ谷の質問にも真面目に答える気が失せ、透架は投げやり感丸出しの返答と共に肩を竦めてみせる。
「納得なんかするわけないじゃん。いい加減ブラックな仕事にはうんざりだし、御社の内定はノーセンキュー。あたしはそろそろ引退して、金持ちのイケメンと結婚するからご心配なく」
「残念ながら、そうは問屋が卸すまい。なぜお前をここに呼んだかわかるか? それもわざわざ塵劫局への離反疑惑まででっちあげて」
「なぜって言われても……透架さんが可愛いからとか? 気の利いた口説き文句なら聞いてあげてもいいけどね」
露骨に戯けた透架に対し、雨ケ谷は身も蓋もなく告げた。
「何のことはない、用があるのは今の『それ』だ。生憎、歳を取ると女遊びにも飽きが来てな。ここは一つ、身体目当てと割り切った方がお互い幸せだと思うが」
まったく、恥じらいのない大人というのはこれだから困る。
身体目当て――恐らくは今使った「不可触」のことだろう。だが「透明化」は通じず、「不可触」も手札が割れた。あるものを消すことで、相手の認識を撹乱するのが透架の基本戦術だが、能力を知られてしまえば効果は半減する。
「ホントつまんねー、あんた人のこと貴重資源か何かだと思ってるでしょ?」
「一目惚れと言ってくれ。手に入れたいくらいには気に入っているとも。できれば穏便な形でな」
人類を救うという免罪符で個人の幸福を無視する。そんな塵劫局の姿勢は正直言って気に食わない。かと言ってBABELの誘いに乗るつもりもない。結局のところ求められているのは利用価値。それ以上でも以下でもない。強いていうなら御厨を最後まで利用した組織と、そのきっかけを作った組織の違いに過ぎず、それなら前者のがまだマシというわけだ。
透架は散乱したガラスの破片を手にすると、男の顔面を目掛けてサイドスローで投げ返す。彼と透架では出力と体格が違いすぎる。正面からの近接戦闘は分が悪い。雨ケ谷はガラスの抜けた窓枠を飛び越えながら、掌を盾にして飛来する破片を受け止めた。鋭く繊細な刃が肉を貫き血を滴らせるが、意に介する様子はない。
「俺の体内に組み込んだのは小型増殖炉の完成形でね。俺や亜夜乃を始末して塵劫局からの疑惑を解消するつもりだろうが……できるかどうか、何なら出頭期限まで試してみるか?」
そんな再生モンスターとガチの殴り合いなど御免被る。しかし一撃離脱を繰り返して削るとしても、そのたびに治られては始末に負えない。リスクを覚悟で短期決戦を挑み、考えうる全ての致命傷を叩き込んだら死ぬだろうか?
そんな思案を巡らせる透架に、雨ケ谷は笑いながら傷を受けた頸部を晒してみせた。透架が与えた刺突傷は出血どころか傷跡すら薄れつつある。常軌を逸した回復力に娘は息を飲んだ。
「活性プログラム『生命の井戸』。事前に再生ナノマシンの生成をプログラムしてやれば、桁違いの回復力と出力を発揮する。死者が蘇るなど、ただの通過点に過ぎない。この研究が最終的に行き着くのは――『不死』だ」




