夢想家の椅子
いつもと同じはずの朝。
でもあなたの足は、どこか別の日常へと迷い込んでしまったのかも知れません。
これからしばしの間、あなたの心はこの不思議な世界へと入って行くのです。
朝、いつものように始業時間ギリギリに会社に行くと、自分の席に見知らぬ男が坐って仕事をしていた。
「おい、そこは僕の席だぞ、どいてくれよ」と言うと、
男は振り返って、迷惑そうな顔で答えた。
「何を言ってるんだ。ここはもともと僕の席だ。仕事の邪魔だから冗談はやめてくれ」
あらためて見ると、こんな顔の男は入社以来見たことがない。
間違って隣の会社に入ってしまったのかと、あわてて周囲を見回したが、そこはいつもと変わらぬオフィスで、女子社員たちもお馴染みの面子だ。
反論をしようとした時、早朝ミーティングを終えて課長が席に戻ってきた。
ありがたい、救いの舟だ。
「課長」と僕は訴えかけた。「この男が私の席を占領してしまっていて仕事が出来ません」
すると課長は不思議そうな顔でこちらを見て
「君は誰かね?」と言った。
「うちの課に、いや、わが社に君のような社員がいた記憶がないのだが……」
その言葉に、一瞬めまいがした。
ふいに周囲の風景の現実感が失われ、理不尽な夢の中に突き落とされたような気分だ。
救いを求めるように視線を泳がせたが、同僚の女子社員たちも、よそ者を見るような冷たい眼でこちらを見ている。
「何を言ってるんですか? 私は勤続一〇年、課長が係長だった頃からずっとお側で働いて来たではありませんか!」
反論しながら、自分で自分が情けなくなって来た。
自己中心的で気分屋で決して尊敬できる上司ではないこの男に、何でこんな媚びるような台詞を言わなければならないのか?
「なるほど」
言いながら課長の眼が狡猾そうに光るのが見えた。
悪い予感がした。
「仮に君が我が社の社員だとしよう。勤続一〇年というのが本当なら、すでに主任クラスになっていてもおかしくないはずだ」
そう言われると反論出来なかった。
さらに追い討ちをかけるように課長は続けた。
「君のようなタイプの人間を私はたくさん見て来た。いわゆる趣味人と言えば聞こえはいいかも知れないが、要するに会社の仕事というものを、生活費と趣味に注ぎ込む費用を捻出するためにイヤイヤやっているノルマとしか考えていない。当然、仕事にやり甲斐など感じているはずはなく、会社に貢献するつもりもさらさらない。就業時間中も心は趣味の世界にたゆたっていて、とりあえず大きなミスもなくやり過ごせればいいとしか思っていない。身体は机に縛り付けられていても、心ここにあらずという状態だ。そんな人間が果たしてここに実在していたと言えるかね?」
「いや、それは、その……」
ほとんど図星を指されて、僕はたじたじとなった。
課長の言うように、僕はアニメやゲームの世界が大好きで、給料の大半はそれにつぎ込み、会社の仕事など、偉大なる趣味に奉仕するものだとさえ思っていたのだ。
「反論出来んだろう。君のような非実在的社員は我が社には必要ないのだよ。仕事の邪魔だ。さっさと出て行きたまえ!」
とどめを刺されたように、僕はよろめき、つんのめるようにして部屋を出て、そのまま階段を駆け下りた。
悪夢としか思えなかった。
しかし外の世界は騒音と熱気に包まれた、まごうかたなき現実だった。
夢遊病者のように街をさまよい歩いたが、どうしたらいいか解らない。
気がつくと、街を見下ろす小高い丘の上にある公園のベンチに坐っていた。
傍らを見ると、麦わら帽子をかぶった老紳士が、イーゼルを立て、キャンバスに向かって絵筆を走らせていた。
「何を描いているのですか?」
妙に気にかかって声をかけると、
「心に映った風景を描いているのですよ」
と老人は答えた。
「見せてもらってもいいですか?」
「どうぞ」
と言われて歩み寄ってキャンバスをのぞき込むと、そこには公園から一望出来る街の景色が下の方に描かれていて、画面の大半を占めるスペースに抜けるような青空と、ぽっかり浮かんだ白い雲。そして雲に囲まれた中央のスペースには、白い椅子が宙に浮いている。その椅子に坐っているのは、間違いなく僕だ。
「これは?」と僕が訊くと、
「夢想家の椅子ですよ」
と老人は答えた。
「現実世界に居場所のない、あなたのような人が坐る椅子ですよ、ほら」
言って老人は僕の肩をポンと叩いた。
あれから五〇年……。
僕は趣味で描きはじめた絵が認められ、今日も絵筆を走らせている。
そして思う。
あの日、公園で出会った老画家は、未来の自分自身だったのだ、と。
了
明日の朝がいつもの朝とは限りません。
だけどそれは、必ずしも悪いこととは言えないかも知れませんね。
それでは、またお逢いしましょう。