弟設定
「つまり、昨晩のことはまったく覚えていないということですね……。それにしても、とてもおいしいです! ありがとうございます!」
テーブルの上には二人分のあたたかい朝食。炊きたてのごはん、かぼちゃと大根の味噌汁、だし巻き卵、焼き鮭、ほうれん草の白和え。
なぜ謎の男と朝食を共にしているのか。
青い髪に青い瞳の男は、「見知らぬ侵入者」ではなかった。ユイの許可を得て、ここにいるのだという。そういえば、頭がはっきりしてくるとともに、なんとなくだが、昨晩は誰かと一緒に家に入ったような記憶がユイの脳裏に蘇ってきた――そのうえ、どういうわけか自分から家に来るよう誘ったような気さえする……。自分は知らない人間、ましてや知らない男性を家に招き入れるようなことなどするわけがないのだけれど――ユイはちょっと信じられない気持ちだった。
男は一晩ずっと一緒にいたが、誓って妙なことは何もしていないという。その点は、顔を赤くして慌てながら必死で否定した。全力で、否定した。滑稽な程懸命に身の潔白を訴える男の不器用な様は、決して嘘をついているために動揺しているのではなく、単にシャイな人なんだなあと誰が見てもすぐにわかる様子だ。
問答無用で追い出すこともできるだろうが、それよりも昨晩何があったのか、どういういきさつでこうなったのか、そもそも男が一体どんな人物なのか、ユイは知りたかった。
ユイは、朝食を必ずとる派だ。なんだかよくわからないが、なにもなかったにせよ仮にも共に一夜を過ごした相手のわけだし、まあ朝ごはんくらいご馳走してあげてもいいだろうということにした。
――よかった。変な人、怖い人じゃないみたい。礼儀正しいし、なんだかかわいらしくて面白い人だな。
でも変に意識すると話がややこしくなる――とりあえず「男女」としてではなく、ちょっとした知り合いのように接してみたらどうだろう――ユイは心の中で男との距離の取り方を考えていた。
――知り合い……、というのもなかなか微妙だなあ。やっぱり異性なわけだし……。そうだ。仮に、「泊まりに来た弟」、ということにしておこう。
ユイは感情の、「ある大切な部分」に意識的に蓋をした。
「朝ごはん作るから、ちょっと待ってて」
「えっ!? そんないいですよ! いいです! 私のことならお気遣いなく!」
ユイの申し出は、男にとってまったくの想定外なものだったらしい。
「もしかして帰るの?」
「いえ、あの……。帰るわけには……」
――帰るわけには? どういうことだろう。
「あ! そうだ! ごはんできるまで少し時間がかかるから、お風呂でも入っちゃったら?」
お風呂、と聞いて男はさらに激しく動揺した。
「い、いえ! そんないいです! とんでもない! ほんとお構いなく! まったく、全然、ほんとに大丈夫です!」
――「まったく、全然、ほんとに大丈夫」ってなんなんだ?
ユイは男の慌てぶりが可笑しくなった。
「ん? 遠慮してるの? 初対面の女性の家に泊まるなんて大胆なことしてるくせに、なにをいまさら……」
――あ。「弟設定」をつい自分から崩してしまった。
同時に「蓋」も外れた。
「いえ、あの、そんな……、私は別に大胆なことをしているというわけでは……。ええと……。その……、申し訳ない、です……」
男はいっそう頬を染めて、なんと返答したらよいか困ったのか視線を斜め下に落とし、うつむいてしまった。伏せられた切れ長の瞳は妙な色気があった。
――なんだコイツ! かわいいじゃん!
ユイの周りにはまったくいないタイプだった。おそらく男は自分より二、三歳年下だろうと思った。ユイには二歳下の弟がいる。弟よりもさらに年下に見える。
――もしかしたらもっと若いのかも。下手をしたら未成年!? まさか私、家出少年を匿ってしまっているの?
携帯電話を投げつけられる手痛い洗礼を受けた青の髪と瞳の男は、朝ごはんお風呂付の高待遇に昇格した。