ピアノの音
満月から少し欠けた立待月。黒い雲間からぼんやりと見え隠れしている。
「今夜で決着がつきます」
シュウは真剣な面持ちでそう告げた。が、ユイがまた不安に思ったり緊張したりしてしまうのではないかと気付き、柔らかい笑顔、明るい声になるよう努めた。
「ユイさんが明日の朝目覚めるときには、すべて終わっていますよ」
ユイはシュウを見つめ、シュウの言葉をゆっくりと反芻した。
――すべて終わる……。シュウの言うように、朝普通に目覚めたらすべて解決していた、そうなっていたらどんなにいいだろう。一晩なんて、眠ってしまえばあっという間だ。でも、シュウはその間ずっと一人で戦っているんだ……。もし、朝目覚めてシュウがいなくなっていたらどうしよう。ついそんな恐ろしい考えが浮かんでしまう。後日シュウの一族の誰かが突然訪ねてきて、シュウの安否も教えず一言「解決しました」とだけ告げ、それですべてが完了したことになるのだとしたら……。私は今まで通りの日常に戻り、もう二度とシュウに会えないのだとしたら……。今までのシュウとの時間が、全部無かったことになってしまうんじゃないか……。
何も知らないまま平和に朝を迎えたい気持ちより、なにが起こっているのかすべてを知りたい気持ち――とても怖いけれど――の方がユイの中で大きくなっていた。
ユイは一人ベッドに横たわり、ベッドの脇にシュウが控える。……傍から見たら、ちょっと奇妙な光景の三度目の夜。
「……シュウは怖くないの?」
シュウが恐ろしい目に遭わないように、本当は眠らない方がいいのかもしれない。そんな考えがユイの中で生まれていた――私なんかのために、危険なことをする必要なんてない。
「……怖いですよ。もちろん。慣れているとはいえ、私も人間ですから」
シュウは明るい声で続けた。
「でも、今は大丈夫です。最高においしいロールキャベツをご馳走になりましたし、面白いテレビで大笑いもしましたし。……それに、ユイさんの体調もよいようですしね。大丈夫って心から思えます」
「……シュウは強いんだね」
「強くはないですよ。人生って『今』の連続です。今が大丈夫って思えたら、大丈夫。その先も前も全部大丈夫なんだと思います。大丈夫じゃないときは大丈夫になるよう全力で努力し工夫します。そして、きっとどんなときも大丈夫な状態にできるって自分を信頼することにしています。……後は、ケセラセラ、なるようになる、天の采配に感謝し、身を委ねるだけです」
「シュウはえらいね。……とてもいい考え方だね」
「でも、現実はそんなにうまくいかないんですけどね。自分のできることは本当に少なくて、天や人に助けてもらってばかりです」
――綱渡りのような日常。それがシュウの日常なんだ。
「……やっぱり、やめよう?」
「なにを? ですか?」
「私のためにシュウが危険なことをする必要ないよ」
ユイは体を起こした。
「シュウはもう、帰っていいよ」
ユイは無理に笑顔を作る。平気なふりをする。
――本当は、とても怖い。精神を、魂を喰われる、と言っていた。死んでしまうか、そうでなかったらきっと抜け殻のような、生きているのに死んでいるような状態になってしまうんだろう。怖い。そんなの嫌だ。嫌だよ! ……でも、今がきっと後戻りする、最後のチャンス。……シュウのための。
「急にごめんね。色々ありがとう。でもやっぱりいいよ。やっぱりやめよう」
「……報酬の前払い、貰いましたよ」
「そんなの、関係ないよ!」
「私を信用してないんですか?」
「信じてるよ! シュウはすごいって! でも、でもやっぱりシュウが……」
シュウは黙ってユイの細い肩をつかみ、なるべく優しくベッドに横たわらせた。
「もうお休みの時間ですよ」
「嫌だ。寝ないよ」
「いいえ。もう眠たいはずです」
「どうして、私なんかのために……!」
――どうして、もっと早く思いつかなかったのだろう。シュウを家に帰してあげればよかったんだ。魔獣だなんて、そんな話信じないって、ここから追い出せばよかったんだ。こんなに好きになる、その前に。
「……初めて、魔獣と戦った日、まだ私が幼い子どもの頃の話なんですけど……。あのときは父の手を借りました。父と二人で倒したんです。それでも、父は私を一人前として認めてくれました。子どもながら、お前の能力は素晴らしいと褒めてくれました。そのときの依頼者の方も、子どもの私に涙を流して心から感謝してくださいました。あの日のことは忘れません。この世に生まれいでたのが一度目の誕生日だとすれば、この日が私の二度目の誕生日だったんだと思います。この力は私にとって私が私である証明なんです。そしてこれは運命でありながらも自分で決断した、生涯をかけて追求すべき道なんです。途中で放り出すようなことは私の魂が許しません」
「でも……」
言いかけたユイの弾力のある柔らかな唇に、シュウはそっと人差し指を押しあてた。
ユイは次の言葉が出てこない。
――シュウを止めなければ。今なら間に合う。でも……。唇に感じる、シュウの指の感触……。心臓がどきどきして頭がうまく回らない――これは、魔法? シャイで不器用なんだか、女性の扱いがうまいのかわかんないよ、もしかして私のこと子ども扱いしてる?
ユイはちょっぴり悔しくなる――もう、その指、食べちゃうぞ。
「私を信頼してください」
強いまっすぐな、するどい眼差し。戦士の顔。
――強いひと――
ユイは悟った――このひとを、このひとの意志を変えることはできない。
「私は、必ずユイさんを守ります」
――照れて動揺しているときと、まったく別人みたいだ。この美しいひとの内面には、一体いくつの顔が存在しているのだろう。
「さあ。心配しないでリラックスしてください。明日は会社に行くんですよね? 早く体を休めないと」
会社――なんだか今は現実味を伴わず、どこか遠い世界の絵空事のようにユイには聞こえていた。
シュウは微笑みを浮かべ、ユイの手をそっと握る。ユイの脳が、徐々に睡眠に移行するよう指令を出しているのを察した。
ユイはまだ眠りたくなかった――なんだかシュウはずるいよ。なにがずるいかわかんないけど、こんなのずるいよ。
シュウともっと話がしたかった。遠くでピアノが鳴った気がする。
「……シュウの指は細くて長くて綺麗だね。もしかして、ピアノとかやってた?」
――聞こえる。ピアノの鍵盤の、高い音。




