魔法のような時間
夕方になると、雨は上がっていた。ツバメの賑やかなさえずりでユイは目覚めた。体はすっかり軽くなっていた。よく眠ったことと、シュウが密かに施しておいた「まじない」のおかげだった。
「夕ごはんは私が作るよ。ごめんね。ずっと寝てしまって。今度はシュウが休んでね」
キッチンの窓から虹が見えた。濡れた木々の緑はいっそう鮮やかに、夕日に照らされきらきら輝いている。
――ちょっとお散歩したいって言ったら、シュウに怒られるだろうな。
少し元気になるとすぐこれだ。我ながら子どもみたい、と呆れてしまう。シュウを休ませてあげなきゃ、自分も安静にしてなきゃ、外出なんてとんでもないこと! でも、シュウと一緒に虹を見ながら雨上がりの街を散策したいな、見慣れたはずの風景もきっと素敵な発見がある、と思う。ユイの想いとともに、スープがことこと煮えていく。
メインのおかずは以前に作って冷凍にしておいたロールキャベツにした。
「いただきます!」
「ご馳走様でした!」
シュウは食べ始めるや否や、ものすごいスピードで綺麗に食べ終えた。実は、ロールキャベツが大好物なんです、そう言ってシュウははにかむ。
ユイはもし過去に戻れるのなら、ロールキャベツを作っている自分に、もっときちんと丁寧に、そしてたくさん作っておいてね、後で絶対役に立つから、とアドバイスしておきたい、そんな気分になっていた。
何気なくつけておいたテレビのバラエティ番組に、二人は明るい笑い声をあげた。
お笑い芸人と「天然キャラ」の女性タレントが、オーロラを目指しカナダを旅するという特別番組だった。しかし旅番組というよりも、お笑いの要素が圧倒的に強かった。なんの予備知識もないまま出発したタレント達の旅は、普通では考えられないハプニングの連続、まさに珍道中だった。
ありえない、こんな面白いことって現実に起きるんだ、とユイは少し呆れながらも笑ってしまった。
「すごいね! なんでこんな変なことになるんだろうね! この人達面白すぎる!」
奇妙な言動をしながら右往左往する日本人を、カナダの人々は笑顔で助けてくれていた。
「きっと、好奇心旺盛で前向きだから困難を困難と思わせないところもあるんでしょうけれど、明るく素直になんでも楽しめる心が、自然と楽しい出来事や優しい人達を引き寄せているんでしょうね」
自然に引き寄せる――今まで無邪気に笑っていたユイの心に、またたくまに不安の黒い雲が生まれ始めていた。
「……人でも物事でも、引き寄せるって、あるっていうよね……。もしかして、私の中に、どこか悪い部分、醜い部分があるからユメクイなんてものを引き寄せちゃったのかな……」
――自分ではよくわからない。でももしかしたら、こんなことになってしまったのは、私が悪いせいなのかもしれない……。私にどこか似た要素があるから、あんな恐ろしい化け物を心に住まわせてしまっているのかもしれない……。
「とんでもない! まったく逆です! ユイさんの豊かな心、純粋で綺麗な魂を狙って、ユメクイが近づいてきたんです。決してユイさんが引き寄せたんじゃありません!」
「ほんと……?」
「ええ。本当です。ユメクイとはそういうものです。狙われたら、普通の人間が逃れられるものではありません。そして、ユイさんが美しい心を持っているということ……、それはユイさんを知る人間だったら誰でも認めることだと思います」
「美しい心だなんて……。そんな……ありがとう」
ユイははにかんだ笑顔になった。不安で翳ってしまったユイの心は、シュウの一言で日が差したようにたちまち明るくなった。
――美しい心……? 純粋で綺麗な魂……? 魂……。そうだ。シュウは私の魂について、なにか言おうとしてたんじゃなかったっけ……。
「そういえば、シュウ……、」
テレビの画面は、またとんでもない面白い映像を映し出していた。ユイもシュウも思わず同時に吹き出した。
「なにこれー! なんでそうなっちゃうの!? ありえないよー! この人達、こんな調子で本当に目的地にたどり着けるのー!?」
ユイはそれからしばらく笑いが止まらなくなった。タレント達のおかしな掛け合いも見事に笑いのツボにはまった。シュウも一緒に笑っている。
ユイは気ままな一人暮らしを愛していた。しかし、楽しいときに楽しい気持ちを共有できる誰かが隣にいる、同じものを見て一緒に笑い合える誰かがすぐ側にいる、それってとても素敵なことだなと改めて感じていた。そのうえ、その側にいてくれる相手が、笑顔を交わし合える相手が、自分の大好きな人だなんて、なんと幸せなことなんだろう、ユイの心にまたひとつ、あたたかい灯がともる。
――笑顔、そうだ。笑顔だ。笑顔の力は無敵だ。笑顔になれたら、どんな難問も自分の中で消化し、乗り越えられるような気がする。強くなれる気がする……!
なにか大事なことを訊こうとしていた。でも、力強く明るい気持ちにユイの心はすっかり満たされ、大切な問いかけは宙に浮いたままとなった。
コマーシャルがあけ、今度は美しいオーロラがテレビの画面いっぱいに映し出された。テレビの中のタレント達も歓声をあげる。
清浄な空気の中、たなびく天空のカーテン。赤、緑、青……。刻々とその姿と色合いを変化させる。
――すごい綺麗……。単なる自然現象とは思えない、そこになにか大きな意志のようなものが存在するような気がする……。なんて不思議で神々しい光景なんだろう――
「いつか、本物を見てみたいな」
ユイは大いなる神秘の光景を、自分のこの目で見てみたい、体の奥、心の奥まで届くようなその美しい光を実際に全身で感じてみたい、そう思った。
「ユイさんがそう望むのであれば、いつかきっと叶いますよ」
シュウは優しく微笑む。
――強く願えば、いつの日かきっと現実になる――
ユイは思った。シュウと一緒にオーロラを見てみたい、そんな大きなことは望まない。ただ、シュウと過ごせる魔法のような時間が、オーロラのように様々な色彩に彩られたこの貴重な時間が、なるべく長く続きますように、そう願っていた――




