紫木蓮の花
柔らかな月の光が降り注ぐ。
「大丈夫ですか? 疲れませんでしたか?」
「うん。大丈夫」
本当は疲れていた。体力や気力が消耗している、というのは本当だった。しかし、シュウに余計な心配はかけたくなかった。
「シュウは大丈夫? 疲れてない? 昨夜全然寝てないし、力を使わせてしまったし……」
「大丈夫ですよ。まったく疲れていませんよ。ありがとうございます」
シュウはずっと敬語だ。このひとの、心の奥深い部分にはどうやったら近づけるのだろう――ゆっくり歩きながら、ユイはそんなことを考えていた。
「今日は本当にありがとうございました。自分では選ばないような服だったので驚きました。私も鮮やかな色や凝ったデザインの服を着ても別にいいんだなあとちょっとびっくりしました。女性に服を選んでもらうなんて、初めてです」
「ほんとに? よかった!」
ユイは内心ガッツポーズをとっていた。
――初めてだって! やった! なんでも初めてって快挙だ! ちょっと強引かな、とも思ったけど、いろんな意味で本当によかった! そういえば、シュウには今彼女とかいるのかな。服を選んでもらうのは初めてって言うからには、独身であることは間違いなさそうだけど……。
暗がりの中、川のせせらぎが聞こえる。小さな橋を渡る。
「……シュウは、彼女、いるの?」
勇気をふりしぼって、訊いた。変なタイミングじゃなかったか、自分が変な口調、変な声じゃなかったか、さりげなく訊いたつもりだったが、緊張は隠しきれなかった気がする。暗くて顔が赤いのがばれないのがせめてもの救いだ、心臓のどきどきが聞こえませんように――とユイは願う。
「いません。独身です」
「……そうなんだ」
よし! 今度は実際に小さくガッツポーズをとった。シュウには見えない角度で。
今ならたぶん、色々訊ける。そんな雰囲気だ、チャンスだ、とユイは思った。今度はなにを訊いてみよう。訊いたところで自分がそうなれるわけでもないが、好きな女性のタイプなど訊いてみよう。まずは好きな女性タレントは、とか。そういう話題は別に不自然じゃないはず――そんな小さな作戦を練っている最中、シュウが口を開いた。
「さっきは泣かせてしまって申し訳ありませんでした。安心してもらいたかったのですが、かえって怖がらせてしまいましたね。本当に、大丈夫ですから安心してください。それから、これは私の意思でしていることなので、ユイさんはどうかなにも気にしないでくださいね」
シュウは、ユイが泣いた理由を魔獣に対する恐怖心と、自分のせいで恐ろしいことが起きるのかもしれないという罪悪感のためだと思っていた。なんとかそれらの追いつめるような苦しい思いから解放してあげたかった。ユイがどうやってシュウの恋愛事情や恋愛観を訊き出そうかと思案している間、シュウはずっとそんなことを考えていた。しかし、ユイが涙したのは、ただシュウの身を案じていたためだとは気付いていない。
「……本当に、ごめんなさい。私……」
ふわふわした恋愛モードに浮かれていたユイだったが、また現実に引き戻されてしまった――そんな場合じゃなかった。今は深刻な状態なのに……。自分はなんてばかなんだろう――また泣きそうになっていた。
「あ! すみません! また……。ほんとに、大丈夫ですから! 心配しないでください! どうか、泣かないでください」
今度はシュウが反省した。
――ああ、自分はどうしてこうも不器用で下手くそなんだ。ユイを笑顔にしてあげたい。逆に追いつめてどうするんだ。こんなとき、気のきいたことのひとつでも言えたなら……。
遠くで猫の鳴き声がする。二人はお互いを気遣いながら、次の言葉を見つけられないでいた。足音だけがアスファルトに静かに残る。
紫木蓮の咲いている家の角を曲がる。大きな紅紫色の花は夜の闇にぼんやり浮かび上がり、今が盛りと咲き誇っているのが見てとれた。
両の掌を合わせ、膨らませたような形の花。まるで大切ななにかをそっと包み、優しく守っているかのようだ。
「私、この花好きなんだ」
ユイが呟く。
「私も、好きですよ」
二人はアパートの階段を昇った。




