顔
明治という時代が立ち上がってゆく黎明期を写した、一葉の不思議な写真が残っている。
五、六十人の男子生徒が居並ぶ中に、ひとりだけ見当違いの方角を見て、苦虫を噛みつぶしたような暗い眼をした男が写っている。記念撮影の端っこに居て、何ものかに抗するかのようにフレームの外を睨みつけている。
ピントが合わぬ世の中への爆発的な不満か、カイゼル髭には無節操にレンズを向ける周囲への苛立ちか。あるいは、いっこうに飼い慣らされてはくれぬ自分の中の自分自身への鬱屈なのか。色に囚われない分、時に白黒は、カラーよりも写った人物の心の内を写し出す。
前方から三脚に睨まれた状況で、自分が取ったポーズと表情そのままが白日に晒されるのは承知のうえだ。男は抑え切れぬという風な顔をして、思い切りの反抗心をカメラの向こう側にぶつけているとしか思われない。
しかし、百年後を生きる私は、この男の顔に得心する。
写真が捉えたその顔が現す激しいまでの情念を体の内に住まわせていたからこそ、後年生み出されることになるあの詩情の豊かさがあったのだ。
これだけの猛々しい怒りや鬱屈を露わにした顔からは、生身のままで現実社会に身を置くことが、この男にとってどれほど宿命的な苦しさであったかが容易に想像できる。
一方で、それだけの悩みと苦しさを背負った心だからこそ、人間をその背中の後ろまで凝視し、自らの横に居て建前の頬かぶりをしたまま自らは決して語り出そうとはせぬ心の内を、見事に写し取った作品を世に知らしめたのだ。
百年後の今を生きる私たちまでが、一緒になって生を伴走してもらっているような感覚におちいる文章の襞に、男の背負った生きざまの苦悩は結晶している。人である以上、文学者の仕事の豊饒さもまた、現実を生きる人としての真摯さに比例する。筆を執るためには、まず、人は起たねばならぬのだ。
百年前、生きることそのものに苦しみ、悩み、自分の生と真っ向から葛藤した男がいた。本当は、男が睨みつけていた先は、自分の心そのものではないのか。そのように覚悟した者だけが持ちうる慈愛の雫が、彼が書いたものからは今も滲み出している。
さて、そろそろこの男の名を明かさねばならないだろう。男は熊本五校教師時代の、漱石と名をしるす以前の夏目金之助その人のことである。