第73話・魔獣グリーンフェイス
アパートの大浴場の窓を壊して、緑の顔の赤い一つ目の猿みたいな生物が姿を見せる。
「これがグリーンフェイス? 初めて見た……」
そう呟く美咲に、そっと小声で訊いた。
「魔獣か?」
俺が視線を向けたから、美咲は胸元と下半身でタオルを押えている手に一層力を入れたようだった。
少し顔を赤らめながらも答える。
「……そうだよ。森の奥の方の魔巣窟でよく見られるって聞くけど、私たちはそこまで行かないから。まさか『ゴブレット』内に入りこんでいるなんて……」
やはり魔獣か……。
今まで見てきた魔獣は、大きさや動きにこそ驚かされたが、顔などはイノシシや狼など地球にいる動物とそれほど変わらなかった。
しかし、こいつは違う。
このグリーンフェイスという奴も猿と言えば猿なのだが、その顔の色、赤い一つ目という点はいかにもモンスターだ。
鹿角がこちらにお尻を向けたまま、震える声で言った。
「私たちみたいに、見たことがない人がきっとこいつを幽霊だと勘違いしたんだ」
「うん。お猿さんっぽいけど、暗い暗闇に顔だけ浮かんでいたら、オバケだと思っちゃうよ」と、雛季が頷いた。
次の瞬間、小窓の下の壁に亀裂が走り、あっという間に破壊された。
悲鳴を響かせ、女性たちが一斉に窓際から離れた。
俺たちの背後に回る者もいたので、俺は素早く玉城と雛季の間に体を滑り込ませ身を隠した。
窓の下部の壁が一部崩れ落ち、大きくなった口から、体長一メートル弱……少し大きめのオランウータンぐらいの魔獣がこちらに入りこんで来た。
オランウータンと言っても体だけで、顔はやはり不気味な色と大きな赤い眼が一つだ。
さらに今までの魔獣にはなかった予想外の動きを見せる。
突き出した手が何倍の長さにも伸びたのだ。
その手は、足がすくんで逃げ遅れていた一人の女性を狙って、天井に近い高さから湯舟を仕切る岩まで達した。
「あなた、何やっているの! 逃げて!」
そう叫びながらクレンペラーさんは駆け寄り、女性を抱きかかえ、横に跳んだ。
二人の体を掴み損ねた魔獣の手はその下の岩を砕く。力も尋常じゃないようだ。
クレンペラーさんの胸の中で震えている女性の腕から血が流れ出ていたが、それだけで済んだのだから運がよかったと思うしかない。
「グリーンフェイスは魔溜石以外にも、人の肌を好物としている! 特に肌理の細かな女性の肌を。みんな気をつけて!」
クレンペラーさんは声を張り上げながら、女性を引っ張ってこちらに戻ってきた。
一方、魔獣は「ギュルギュル」と奇妙にうなって、ついに岩に飛び降りてきた。
魔溜石灯によってよりはっきりと露わになった姿は、やはりモンスターとしか言いようがない。
皆が洗い場の方に裸で身を寄せ合い、うろたえる。
鹿角は自分の肩越しに彼女たちと自分の仲間に視線を送り、歯ぎしりして言った。
「くぅ……風呂入る時まで剣を持ってきてないよ……」
「脱衣場には?」と、クレンペラーさんが強い口調で訊いた。
「……ない。普段は一応持ってくるようにしているけど……今日は……」
俺の救出のため急きょ来たから、部屋に置いてきたということか……。
こんな時によりによって魔獣が現れるなんて、自分の運のなさを呪いたくなる。
いや、これまでいろいろラッキーなことがあったから、その分最後に不幸が訪れたのか?
鹿角の弱々しい答えを聞いて、クレンペラーさんは小さく溜息をついた。
「脱衣場ぐらいには常に持ってきておかないと!」
そしてその脱衣場の方に向かって叫んだ。
「そこの、メガネの子! 右手の棚のドア側に、私の剣があるはずよ! 白いズボンの上に! それを渡して!」
ドアのところに立っていた坂出はそれが自分への指示だとわかると、慌てながらも脱衣場に引っ込み、すぐに『エイト剣』を持ってきた。
「これですか? どうすれば……?」
魔獣がジャンプして湯舟を飛び越え、接近してくる。
「こっちに投げて!」
「ハ、ハイ……」
坂出は蚊の鳴くような返事をして、持っていた『エイト剣』を両手で投げた。
球技などが不得意な子特有の、いかにも不慣れという投げ方で、クレンペラーさんのいる場所のだいぶ手前、方向もややずれたところで鞘に入った剣が落下した。
「ちょっ……どこに投げてんの?」
「すみません! 体が震えて……」と、坂出がペコリと頭を下げる。
クレンペラーさんは自身の剣に向かって走り出した。
それとほぼ同時、魔獣が前に跳躍し、腕を再び伸ばす。
クレンペラーさんは床の剣に飛びつき、横に転がる。
そのすぐ傍の床を伸びてきた魔獣の手が削った。
間一髪剣を拾いつつ攻撃を避けきったクレンペラーさんは、目にもとまらぬ速さで鞘から『エイト剣』を抜き取り、剣先から放った気で、腕から遅れて迫ってきた魔獣の背を穿つ。
猿のような魔獣は耳をつんざく高音の喚き声を発しながら、脱衣場のドアの上の壁に激突した。
茶色い塊が、壊れた壁の一部と共に床に落下する。
傍に立っていた女性たちは慌てて距離を取り、坂出も雷に怯えた犬のように脱衣場の方へ引っ込む。
「さすが『黒衣の花嫁』のキャプテン、クレンペラーさん!」
鹿角が顔を綻ばせて言った。
『黒衣の花嫁』のレベルがどれほどのものかは知らないが、今の攻撃のスピードは確かにすごかった。
感服と安堵の表情を浮かべた俺たちだったが、クレンペラーさんは一喝し、尚も敵に詰め寄る。
「まだ終わっていないわ! 今の気は弱かった。あの程度ではグリーンフェイスは倒せない……!」
確かに、「ぎゃおおお!」と大きな奇声を発し、グリーンフェイスがすでに立ち上がっていた。
そして一つだけのその炯眼を、一番近くに立っている松川さんへ向けていた。
「何、ボーっと立っているんですか?」
「ボーっとしているわけではないですけど……」
松川さんは曇った声で、近寄ってくるクレンペラーさんに言い返した。
そうなのだ。松川さんは後ろにいる俺を匿っているため、相手から距離を置くことができないでいるのだ。
クレンペラーさんが松川さんの横を走り過ぎ、『エイト剣』を構える。
一歩早く、グリーンフェイスが飛びかかってきた。
「……ガッシュ!」と叫ぶクレンペラーさん。
【GASH(=長く深い切り傷)・クレンペラー葵所持魔溜石、『A』、B、E、『G』、『H』、I、L、M、N、O、O、P、『S』、X】
斜め上に向かって振られた刀身から青白い気が伸び出る。長い直線の気だ。
それが松川さんの顔の前でグリーンフェイスに斬撃を与えた。
グリーンフェイスはその場で落下するが、最後に伸ばした手が松川さんの白い肩に傷を残す。
「ああんっ! いった~い!」
「だから、あなたたちがそんな所にいつまでもいるからですよ……」と、クレンペラーさん。
「あああ、大丈夫です~。杏姉はこれくらいのアタック受けても、むしろエクスタシーぐらいにしか感じないですから」
「そうそう、Mだもんね~」
引きつった笑いを浮かべた玉城と鹿角がそう言って、松川さんと俺を背に回し、クレンペラーさんから遠ざけた。
「フフフ……さすがにエクスタシーとはならないけど、大したことはないわ」
松川さんも二人に合わせて微笑み、血の線が浮き出ている腕を見つめる。
「痕に残らないかだけ心配よ。肌は結構自信があるから……」
「ハァ~……ならいいですけど……」と、クレンペラーさんが呆れたように溜息をついた。
「しかし、さすがクレンペラーさん! 見事です」
鹿角が揉み手して言うと、クレンペラーは鋭い目を向けた。
「私だってギリギリでした。今の攻撃魔法は発動時間が長い分、ずっと同じ構えをしていなくてはならないから、次の攻撃がどうしても遅れてしまうの。外していたら私もカウンターを食らっていたわ……」
クレンペラーは腰に手を当てながら、余憤を吐き捨てる。
直後、左手の洗い場側に寄っていた『黒衣の花嫁』のメンバーの中から切羽詰まった声がした。
「キャプテン! まだ動いていますっ!」
叫んだのは確か出水と言ったか、栗色の髪の子だった。
彼女の声で足元を見下ろしたクレンペラーさん。そして俺たち。
驚くことに、グリーンフェイスはまたその手を鎌のように薙ぎ払った。
「う、嘘?」
クレンペラーさんは咄嗟にジャンプしその手をかわす。
彼女の瞬発力にも驚かされる。
魔獣の手は床を削りながら、その勢いのまま松川さんの脛をかすめ、その先に立つ『黒衣の花嫁』メンバーの方へ流れていく。
「きああああ!」
ルーベンスの絵の中の人のようにふくよかな女性が悲鳴を上げ、その場に頽れた。
彼女の両の脛から血が流れて、薄い灰色の床に黒い血だまりができた。
「もうっ!」とクレンペラーさんが吐き捨てるように言う。
同時に、相手の攻撃を避けようとした雛季がまた足を滑らせ、尻餅をついた。
グリーンフェイスが伸びた片手を使って、パチンコのように勢い良く前へ飛躍し、その雛季に迫った。
「雛ちゃんっ!」
美咲の叫びが響く中、雛季の目の前で青白い光が横真一文字に走った。
再びクレンペラーさんの剣が、間一髪のところで雛季を救ったのだ。
グリーンフェイスが茶色い物体と化して飛んで行き、壁に激突。
奴を中心にして蜘蛛の巣のように放射状のヒビが入った。
横にあるドアのすりガラスにもヒビが走って、一部が割れる。
「雛季ぃ、大丈夫か?」と鹿角がキャプテンらしく声を掛けると、雛季は美咲の手を借りながらゆっくり立ち上がり、頷く。
「でも、後ろの人が怪我しちゃってるの」
彼女のすぐ横で、ふくよかな女性は歯を食いしばって泣いていた。
「くっ……私としたことが油断してしまった……」
クレンペラーさんは拳で自身の膝を叩くと、こちらに射るような視線を向けた。
何も言わなくても言いたいことは伝わってきた。
あなたたちのMだのエクスタシーだのくだらない話を聞いていなければ……ということなのだろう。
「さすがに死んだようです」
朝霞という女性が勇敢にも壁際のグリーンフェイスに歩み寄り、その死亡を確認した。
彼女の報告が終わるが早いか、出水という女性は脱衣所に走り出し、ほどなくして戻ってきた。
その手には『エイト剣』が握られている。
「彼女は私が治癒します」
「ああ、ありがとう、出水さん。最初に腕を切られたあの子の治癒も頼むよ」
疲れ切ったように言ったクレンペラーさんに、出水は頷いた。
出水さんの『エイト剣』から白い気が発せられ、ふくよかな女性の脛、最初に傷を負った女性の腕に絡まり、みるみる傷口を塞いでいった。
彼女たちの回復を少しの間見届けていた鹿角が、思い出したかのように顔をクレンペラーさんの方へ向けた。
「ありがとう、クレンペラーさん。あなたがいなかったらどうなっていたことか……。このお礼は……そうね、今度、中庭でご飯でもおごりますよ」
「そんな、いいわよ、別に……。同じアパートの住人として、こういう時助け合うのは当たり前でしょう? それより、彼女……松川さんだったかな? あなたも治癒した方がいいんじゃない?」
「ああ、私は部屋に戻って自分でやりますから、お構いなく……フフフ」
松川さんは脱衣場の方に前進しながら言った。
当然俺も、その周りを囲んで琴浦姉妹もついて行く。
「そうだネ。じゃあ、私たちも戻りましょう、キャップ」と玉城が作り笑いで言って、お尻や肘で俺を前へ押しやる。
「ちょ、ちょっと……」
クレンペラーさんの呼びかけを無視し、鹿角も脱衣場へと俺らを押しやった。
「それじゃあ、また……」
「な、何か怪しい……」というクレンペラーさんの声がわずかに聞こえてきたが、鹿角はピシャリとドアを閉め、すりガラス越しに手を振った。
玉城もその横に並び、浴場の方に手を振り続ける。
「二人がこっちを隠してくれているうちに、カケル君は早く着替えて!」
美咲がタオルで自分の体を隠し、視線を俺の裸から逸らしながら囁いた。
「カケル君、急げ~!」と雛季が横で、裸のまま応援をしてくる。
せっかく美咲が『黒衣の花嫁』の人たちに聞こえないように小声で言っていたのに、何とも目立つ行動だ……。
坂出たちにも急かされ、俺は冷水で濡れた体のまま慌ただしく服を着た。
つくづくこの服が向こうのメンバーに発見されていなくてよかったと思う。
どんなに棚が空いていても端っこを使う俺の習性が、運よく彼女たちに服の発見をさせなかったのだ。
着替え終わるとすぐさま脱衣場を後にした。
結局水風呂だけにしか浸かれなかった体を、夜風がさらに冷やした。
部屋に戻ってから、半分寝かかっていた他の『グラジオラス』メンバーに、大丈夫だったのか訊かれ、風呂場で起きたことをかいつまんで伝えた。
「ふぅ~……危なかったね」と、美咲が心の底から安堵の息をついた。
「本当だよ……。カケル君の『モノ』が両手で隠しきれないぐらいに『変化』したみたいで焦っちゃったな」
鹿角がいたずらっぽく微笑み、俺の股間の方に視線を落とす。
「バ、バカ言ってんじゃねぇ! 変化など……してねぇよ!」
美咲や坂出も顔を染め、鹿角を小さな声で叱った。
雛季は自分のことで口を尖らせた。
「雛もあの猿さんのせいで、二回も転んじゃったんだよ~!」
「ハハ……それは雛季の不注意だと思うけど?」
鹿角がもっともなことを言うと、雛季はポカポカ彼女を叩いた。
それを軽くいなして鹿角は続けた。
「しかし、グリーンフェイスなんかが『ゴブレット』内に侵入しているなんてね……。監視は何やってんのって感じだよ」
「頭がいい魔獣がいるからね。監視の目を掻い潜って侵入したんだね」と、美咲が深刻な表情で答える。
「そこまでして『ゴブレット』に……そこまで女の肌が好きか、あの猿のバケモノ!」
二段ベッドの下で寝転がりながら言った鹿角に、美咲が答える。
「それもあるだろうけど、人へ危害を加えるという魔獣の本能と、それに、やっぱり魔溜石が枯渇し始めているということもあるのかもね……」
俺は自分の布団の上で胡坐をかき、両腕を組む。
「あのグリーンフェイスとかいう奴は、森の奥の魔巣窟によくいるんだろ? つまり棲みついた魔獣のレベル的には上の。そんな場所も枯渇しているのか?」
美咲は静かに首を横に振った。
「まだまだ魔法剣士が奥まで踏み込めていない魔巣窟はいっぱいあるから、あくまでも森の入り口の方の魔巣窟の魔溜石が減ってきているっていう話だよ。グリーンフェイスがいる魔巣窟は、私たち『グラジオラス』にとっては危険な場所になるけど、他のパーティーにとってはまだ序の口だからね」
「なるほど……」と呟いた俺は、わずかに顔をしかめた。
彼女たち『グラジオラス』は、その序の口の魔巣窟にも行けていないレベルということか……。
「でも~、『花嫁』さんたちが倒してくれてよかったね!」
雛季が、坂出が入れて持ってきてくれたホットミルクを飲み、口周りに白ひげを作ったまま言った。
「あのキャップはスゴいよネ!」
「うん、私もあんな間近で見るのは初めてだったけど、魔法発動までの速さも凄いし、エネルギーのコントロールがうまかったね」
玉城と美咲がクレンペラーさんを褒めると、鹿角は不貞腐れた。
「うちのキャプテンも充分凄いわよ。今日はたまたま傍に剣がなかっただけで……」
松川さんがそう慰めても、鹿角は頬を膨らませている。
「私だって、クレンペラーさんみたいに『牙』を出ていれば、もっと腕は上がっているよ」
「『牙』? 何だ、それ……」
俺が訊くと、鹿角はぶっきらぼうに答えた。
「魔法剣士の学校だよ。そこを出た者は魔法剣士としてかなり成長できると言われているんだ」
「『キャッスル』には色々な職人の学校があるけど、魔法剣士や魔法弓士の学校もあるの。クレンペラーさんや『黒衣の花嫁』のメンバーの一部はそこを卒業しているらしいわ」と、美咲が言葉を継いだ。
「学校か……。腕が上がるなら、通うのも悪くないな」
「でも、私たちの今の収入じゃ通うのは難しいの。入学費用と授業料が掛かるからね。とてもじゃないけど払えないよ」
美咲が力なく言った。
俺も安直に口にしたことが恥ずかしくなって口を閉ざした。
さらに時間が進むと、それがこの部屋のルールなのか、誰彼なく魔溜石灯の半分を消して、部屋を一段と薄暗くした。
雛季や玉城、奥の二段ベッドの浅川や小牧、その前に敷かれた布団にいる宇佐はすっかり眠りに落ち、読書をしていた美咲や坂出、広尾もやがて本を置いて寝に入る。
鹿角、ギャルっぽい中間、大人の松川さんの三人だけが、早く寝るのが惜しいというように、入口の横にあるソファに座って話をしたり、酒や温かい飲み物を飲んだりしてなかなか布団に入らなかった。
しかし夜中の一時近くになると、さすがに三人もそれぞれの布団に入った。
俺はと言うと、早々に布団に入ったのだが、風呂場で見た光景が頭をグルグル回り興奮冷めやらず、また今もすぐ傍で多くの女性が横になっているという状況で、なかなか寝つくことができなかった。
ようやくウトウトしだしのは、鹿角たちが布団に入ってから二時間ほど経ってからだった。




