第2話・侵入者と秒速四、五センチで進む俺 ≪キャラ挿絵≫
俺、瀬戸翔琉の人生が大きく変わってしまう日……。
俺は学校の授業が終わるとダッシュで教室を後にした。
下駄箱で靴に履き替え、校舎を飛び出す。
スポーツウエアに着替えた気の早い運動部の連中がストレッチをしている。
彼らの横を走り抜け、校門に向かった。
俺は彼らのように部活に入っているわけではないので、いち早く学校を後にすることができた。
放課後は自由。誰にも縛られることなく、思いのままに時間を使える。それが、汗と涙の輝かしい青春の一部を犠牲にして得られる、帰宅部の特権だ。
誰にも妨げられてはいけない。そう、奴らにも……。
俺が通う(今では『通っていた』と表現した方がいい気もするが)高校から、徒歩八分で最寄り駅に着く。
その日は走り続けていたから五分も掛からなかったと思う。
肩で息をして駅の改札を抜けようとする。
そこで、横の柱から人影が現れ、目の前を塞いだ。
直前に、駅の壁に貼られていた『痴漢は犯罪』と書かれたポスターを目にしていたからか、一瞬痴漢が立ちふさがってきたのかと勘違いした。そいつの顔はどことなく痴漢っぽいし。
だが、その男は痴漢ではなく(今のところは)、クラスメイトの鮫川だった。
彼から借りていた金の額が増えてしまい返せなくなった俺は、だからダッシュで帰ろうとしていたのだが……。
鮫川が突如駅に現れて、心臓が止まりそうになった。
間違いなく、俺は教室を誰よりも先に出て、ほぼ休むことなく走り続け、この駅に辿り着いたのだ。教室を出る際ちょっとだけ振り返って、鮫川の姿も確認した。
この男は無駄に図体がデカく、俊敏な動きができるタイプではない。
だから、涼しい顔でこの場に先回りしていることなんてできなかったはずだ……。
「さ、鮫川……? 何でお前、もうここにいるんだよ?」
くぐもった声で訊くと、鮫川は鼻を鳴らし、注射をする新人ナース泣かせの太い腕を伸ばしてきた。
後退りした俺の肩を力強く掴み、自分の胸元へ引き寄せた。
奴の、スクールシャツの下の『Ⅰ LOVE NY』と書かれたTシャツに顔を押し付けられる。
お前がニューヨークを愛そうが、ニューヨークは絶対お前のことを愛さない……と、俺は心の中で呟く。
鮫川は強引に俺の体の向きを変えさせ、駅前のロータリーを指差して言った。
「お前が逃げ出したんで、下校しようとしているこいつら捕まえて、先回りしたんだよ!」
数段の階段の下に横付けされた二台の自転車に、同じ高校の男子三名がまたがっていた。
「バカめ。そうとは知らずに飄々とした顔で現れやがったな」と、鮫川。
「飄々とはしてないだろ……。すげぇ必死に走ってきたんだから……」
掴まれている肩をすぼめながら、睨みつけるように自転車の方を見た。
三人の男子生徒のうち、サドルに座ったままの二人は見覚えがない顔だ。
なるほど、自転車通学している奴の協力があれば、鮫川が先回りすることも可能か。
「乗せてもらったんだな? って言うか、誰なんだよ、そいつらは?」
「知らん。一年らしい。たまたま学校を出るところだったから、頼んで俺たちも送ってもらったのさ」
鮫川は『頼んで』と言っているが、どうせ威圧して強引に乗ったのだろう。
同情の目を向けると、二人の一年生は「どうも」と言って頭を下げた。
その一年生の自転車の後ろにまたがっていた伊賀が、嫌味なほど爽やかな笑顔を浮かべ、階段を上ってきた。
「素直に負けを認めて、武蔵に金を返してやれよ?」
「ほらっ! 返せよ!」と、鮫川が胸を小突いてきた。小突くと言っても、こいつのそれは威力が違う。思わず咳き込んでしまうレベルだ。
「わ、わかった。元々返す予定だった五千はある。だけど追加分を合わせた八千は、財布に入ってねぇよ……」
この男に通用などしないとわかっているが、俺は憐れみを誘うように言った。
「……あと、三千か。……って、今、『財布に入ってない』って言ったよな? そこが気になったんだよなぁ。家にはあるんじゃないのか?」
伊賀が肩を叩いてきた。
「親から買い物を頼まれた時のお釣りをちょっとだけちょろまかして、貯金箱に貯めてるんじゃなかったっけ?」
やはり嫌味なほど爽やかな笑みを湛えて。
それに対する俺の発言もマズかった……。
「な、何でお前がそんなこと知っているんだよ?」
これでは貯金箱の存在を認めたようなものだ。
「カケルが前に自分で話していただろ? 五千円は貯まっているだろうって嬉々として言っていたじゃないか」
「だったら最初から俺に借りずにそれをゲーム代に使えよ。まぁいい。じゃあ、お前ん家まで行って、その貯金箱をぶっ壊そうぜ!」と、鮫川は俺の背を叩いた。
「な、何? 家にまで取り立てに来るのか? とうとう本物の悪徳金融業者になったか? それも実際には借りていない分の金を……」
がなり立てる俺に、鮫川は顔を寄せて囁く。
「貯金箱以上の物をぶっ壊されたいのか? さっさと行くぞ!」
駅から俺の家までの途上で、何度も足を止めたり、逃げ出そうと試みたりしたが、鮫川が俺の服のどこかしらを掴んでいてうまくいかなかった。
俺はいよいよ諦め、二人の後をトボトボと歩く。
やがて家が見えてきた。
二階建て4LDKの平凡な外観の家だ。その周辺の家々と比べて大きくもないし新しくもないが、角にあるので目に入りやすい。
家に近づいていくと、丁度門扉からお袋の智子と妹の咲花が通りに出てきたところだった。
そう言えば、咲花が学校から帰宅してから二人で近所のデパートに出かけるようなことを言っていたのを思い出した。
俺も誘われ、気が向いたら行くと返事したのだった。
お袋が買い物に出かけられるほど元気を取り戻してくれて、正直ほっとしていた。
父・国博が仕事先で行方不明になってから約五年。
その間、家に閉じこもりがちになってしまったお袋に、最近ようやく復調の兆しが見え始め、持ち前の明るさが戻ってきた。
父からの連絡も未だないし、生死すら不明だから、当然気に掛かっているのは変わらないだろう。
しかし、子供たちが何とか今まで通りの生活に戻ろうとしている姿を見て、母も前向きにならなければと気持ちを切り替えたようだ。
歩み寄る俺たちに気がついて、先に声を掛けてきたのはお袋の方だった。
「あ、カケル。お帰り。あら、伊賀君も、こんにちは。私たちもう出るけど……あなたはどうするの?」
「あ、ああ……行こうかなぁ」
苦笑いを浮かべながら背後に立つ鮫川を振り返ると、白い目で見て言ってきた。
「こっちの用事が済んだらなぁ……」
「ああ、もちろん、ハハハ。じゃあ、俺は少しこいつらと話してから行くから、お袋たちは先行っていてくれよ」
「あら、そう。じゃあ、そうするわね」と言ってから、お袋は咲花と目配せをした。
咲花はこっちに向けた視線をすぐ逸らし、お袋の後ろに隠れた。
俺一人だったら絶対何か一言二言声を掛けているくせに、伊賀や鮫川も一緒なのでおすまししてやがる。
「すみません、おばさん。お出かけのところを……。ちょっとしたら俺たちも帰りますんで」
伊賀が優等生のような挨拶をすると、お袋も普段より上品な声音を使った。昔から伊賀にはいいイメージを持っているようだ。
「いいのよ、伊賀君……それに鮫川君だったわね。ゆっくりしていって。でも、カケル。あんたもお友達連れてくるならもっと早く行っておきなさいよ」
「急に来ることになったんだよ……」
まさか借りた金を返すためとか、賭けに負けて余分に払う羽目になったとは言えない。
「まぁ、いいわ。それじゃ、私たちは先行くわね」
そう言って伊賀たちの方へ軽くお辞儀して歩き出した。しかしすぐに足を止め、こっちを振り返った。
「行くのをやめる場合は早めに連絡しなさいね」
「ああ……」
俺が気のない返事をすると、お袋は頷き、また背を向け歩き出した。
その後を咲花が恥ずかしそうに追いかけて行った。咲花はやたらと人見知りする性格で、その時はついに一言も発しなかった。
俺も二人には早く立ち去ってほしかったので、曲がり角で消える二つの背中を無言で見送った。
これからしばらく会えなくなるとわかっていたなら、お袋にも妹にも伝えておくべきことは沢山あったのに……。
俺は金を回収しに来た鮫川に急かされ、玄関に向かった。
お袋手製の、小さなお守りの紐が結ばれた鍵をポケットから取り出し、扉を開ける。
二階に上がって、薄暗い自分の部屋の窓から下を見ると、門扉を少し入ったところで二人が待っている。
「ううう~。ちくしょう……」
俺は机の上の貯金箱を抱え込みながら、一人唸った。
「くそぉ……いつかまた何かの賭けで取り返してやる……」
ぼそぼそと呟きながら、制服からデパートに行く服装に着替える。
「おい、まだかよ、瀬戸~?」
窓の外から鮫川のやや苛立った声がしたが、それを無視して、わざとゆっくり着替えてやった。こんなことをしても、三千円を持っていかれる悔しさは晴れるものではないが……。
外からする鮫川の声が、いよいよ近所迷惑というレベルになってきたので、俺は仕方なく一階へ降りた。
「今行くから待てよ……」
靴を履きながら、玄関の扉の向こうに声を掛ける。
直後、背後で異様な音が鳴った。廊下の奥の台所の方からだ。
「何だ……?」
炎が一瞬で燃え上がる時のような音と、機械的な音がミックスされた、とにかく日常生活ではあまり耳にすることのない妙な音だった。
息をのみ、恐る恐る振り返る。
「……あああぁ?」
視野に飛び込んできた光景にさらにたまげた。
夕方に近づき薄暗くなっていた台所が、眩い光で染まっていた。
光は寸時に縮小。薄暗がりへと戻った台所に残像だけが揺らめく。
深く息を吐き、どぎまぎした心を必死に落ち着かせながら、靴を履きっ放しのままゆっくり廊下を前進する。
秒速四、五センチ。回転寿司の回転板の速度で台所へじわりじわり向かった。
台所に入って初めて気がつく。
奥の勝手口のドアの、取っ手と錠前があった部分に大きな穴が開いていた。
そして今も、まるで火が紙片を燃やすように穴は広がっていき、ステンレスの格子とすりガラスを溶かしている。
「空き巣……?」
つばを飲み込んでから呟く。我が家が空き巣に入られたことはないので、こんな状況ももちろん経験はないが、頭に浮かぶものはそれしかない。
そう言えば少し前に、この近辺で空き巣被害が出たのでご注意をという回覧板が回ってきたことをお袋が話していた。
しかし、それにしても大胆なやり口だ。
ガラスの一部を切断したり、錠前を壊し侵入したりするという手口は知っているが、ドアを半分溶かすなんて……。
たとえ誰かに気づかれようが構わないというような乱暴なやり方だ。
もし住人と鉢合わせになっても、殺せばいいと考えているのかもしれない……。
そんな相手が、半壊したドアのすぐ向こう側にいるのだから、こっちは直ちにその場から離れなければならないはずだが、足がすくみ、思うように動かない。
激しい音と共にドアが剥ぎ取られ、黒い服に身を包んだ男の姿が見えた時も、ただその場で震えながら立っているしかできなかった。
一人の男が遠慮なしに室内へ入ってくると、その後ろにいたもう一人の男も入ってきた。どうやら相手は二人らしい。
二人とも肩のあたりが角張った厚手の黒いコートを身に纏っている。頭にはコートと一体になったフードをすっぽり被っている。
特異な点は、膝まであるコートから伸び出た彼らの脚だ。黒い革靴の上に、鋼板か何かでできた真紅のすね当てを装着しているのだ。
だが、彼らの格好で最も異様な点はそこではない。
腰のあたりで外側に広がっているコートの内側に、剣と思しきものが吊るされているところだ。
「け、剣……?」
この時代に佩刀しているなんて明らかにおかしい。
俺は目を疑い、改めて確認する。間違いない。彼らのコートの後ろ側には左右にスリットが入っているらしく、左後ろへ黒い鞘の先が飛び出している。
コスプレーヤーかと一瞬考えたが、それは現状からの逃避でしかない。
現に勝手口のドアが破壊され、二人の長身の男が家に押し入ってきている。
そして前に立つ男の右手は、左の腰にある刀の柄に掛かっていて、常に臨戦態勢といった感じだ。
こんな殺気立ったコスプレーヤーは見たことがない。
いや、大きなイベントに参加するコスプレーヤーの中には殺気立っている奴もいるかもしれないが、さすがにここまでではないだろう。
フードの影の中、鋭く光った男たちの目が、俺の視線とぶつかる。
あごひげを生やし、顔の輪郭が角張った、手前の男が口を開いた。
「怯えることはない。我々は強盗ではないし、君の命を狙うつもりはない」
イメージ通りの野太い声で、ゆっくり丁寧に言った。まるで日本語を習いたての外国人に語りかけるみたいだった。
挿絵・鮫川武蔵