夕食は何にしましょう
せかせかと歩く人達の喧騒が聞こえる。リズミカルなステップをBGMに僕は彼女の写真を指でなぞる。今でも色褪せない彼女と過ごした時間、彼女の肌のぬくもり、彼女の髪の匂い。穏やかな午後の木漏れ日が、そっと僕の心を温める。ふと、壁掛け時計に目を見やると、午後4時半を回っていた。もうそろそろ、あいつが夕食を作り始める頃合いか。いつもなら彼女がそっと近寄って僕に囁いた。
「明人さん、今晩の夕食は何にしましょう?」
「明人さん、今晩の夕食は何にしましょう?」由紀子は決まってそう、僕に晩飯の献立を尋ねてくる。
「すまない、今夜は外で食べてくる。和哉たちと食べる約束をしてるんだよ。悪いな、言うの遅れて。」
僕の薄っぺらい謝罪に対して、由紀子は心底残念そうに、「そう、それは残念ね。」と顔を落としていた。
「もしまた、お友達と外で食べる用事ができたら、その時は早めに言ってくださいね。」
僕はおもむろに大学の講義で使用する教材をカバンに詰め込め、堅くて重い、開けるたびにキシッと鳴る鉄扉へと向かった。
「ああ、わかったわかった。次はちゃんと言うよ。それじゃあな、僕はこれから大学の講義に出て、その後、あいつらと合流するから。」
そして、僕は4畳半のおんぼろアパートの2階からコツコツと階段を踏み鳴らし降りていった。
あの時、僕は気づくべきだったのだ、あの日が何の日かを。
(明人さん、忘れてるのかしら。今日が2人にとって大切な日だってことを。)
壁掛け時計の下にカレンダーが掛けられていた。由紀子がいつも目に入るようにと、わざとそこにカレンダーを元あった場所からずらしたのだ。そのカレンダーには9月18日の日付に赤く丸が引かれている。
「なあ、明人、今日はこんなとこに来てて、良かったのか?」
長身で眼鏡の男、和哉が僕の瞳を見つめてくる。
「なんだよ、たまにはこうしてお前たちと一緒に飲んでてもいいだろう。まあ、ちっとは由紀子に悪いなって気がしてるけどもよ...。」
「いや、この間さ、偶然、大学で彼女に会ったんだけどよ。彼女、うれしいそうに『もう、そろそろ2人にとって大事な記念日なの。』て言ってたぞ。」
「え、それってもしかして、先週の話か?」
そうだと、和哉は首を頷いて肯定した。しまったと、僕はとても焦った。今日は2人が付き合って2年目の記念日だ。頭の中が真っ白になった僕に和哉が、
「おい、今すぐ帰って謝ってこいよ。今頃、由紀子ちゃん、お前が大事な記念日忘れてるって泣いてるぞ。」
「で、でもよー、家を出るときにあいつ、何も言ってなかったからよ。恐らく、あいつも忘れてるんじゃ...。」
「バーカ、んなわけあるか!楽しみにしてたんだぞ。ほら、今すぐバラの花束でも買って帰れよ。」
僕は自分の都合の良いように現実逃避していた。レポート提出の期限が迫っていたから、忙しくて忘れていた。和哉たちに飲みに行くのを誘われたから、忘れていた。由紀子が普段通りに過ごしているから、忘れていた。しょうがないじゃないか、初めは今日が記念日だと頭に言い聞かせていた。だが、段々と雑念が入ってきて、頭の中で情報を上書きしてしまったのだ。
いや、ここは正直に謝ろう。土下座でも何でもして謝ろう。バラの花束を買っていったら、あいつ喜んでくれるかな。
僕はアパートに向かう途中、アパート近くのアーケード商店街の一角にある花屋に立ち寄った。花屋の店員さんにバラの花束を贈答用に包んでくれるように頼んでいる間、僕は左手を伸ばし、時間を確かめた。時刻は8時半過ぎ。このまま急いで家に帰れば、彼女が待っていてくれるだろう。頬を膨らませて、僕の事を延々と怒鳴り散らすのだろう。そして、次の日曜日には、罪滅ぼしにと浦安にある遊園地にと連れて行かされるのだろう。
僕はそう覚悟して、家路を急いだ。僕のアパートまであと2、300mといったところで、赤いランプ灯を回し、甲高いサイレンを鳴らしながら、救急車が僕の目の前を横切って行った。悪い予感がする。とにかく、急いで家に戻らないと。
焦りと緊張で心臓が破裂しそうになる程、脈打つ。アパートの前にたどり着くと、人混みができていた。その輪の中に、僕は大家さんを見つけた。大家さんも僕に気がづき、歩み寄ってきた。
「五十嵐さん、今までいったい、どこ、ふらついていたの。いえ、それよりも、あなた、早く彼女の所へ行ってあげない。」
「え、いったい何の事ですか。由紀子は俺の部屋で待ってるはずです。」
「由紀子さん、車に撥ねられたのよ。それも、ここで。」
「はね...られた...由紀子が...。」
僕は呆然と立ち尽くしてしまった。大家さんに言われた言葉が頭に入ってこない。これは嘘だと言ってくれ。ただの長くて生々しい悪夢であってくれ。そんな僕の願いは無情にも天には届かなかった。
僕は高まる心臓の鼓動を抑えながら、急いで彼女のいる病院へと向かった。ナースセンターで彼女のことを尋ねる。ナースが僕の身元を訊いてくるのが煩わしい。今すぐ、僕は彼女の元へ向かわなきゃいけないのに。家族でないと面会することはできないと断れたが、
「俺も彼女の家族だ!俺は彼女にプロポーズするんだ!2人で家族になるんだ!だから、俺を彼女に会わせてくれ。」
明かりがナースステーションだけの薄暗い病棟で、僕は叫んだ。
「わかりましたから、静かにしてください。ここは病院ですよ。あなたをお連れしますので、これ以上うるさく騒がないでください。」
そして、1人のナースに先導され、連れてこられた場所は集中治療室だった。良かった、重体だが、息がある。そう思っていた僕に1人の医師が近寄ってくる。
「あなたは彼女とお付き合いしていると聞きました。本当は、ご家族ではない方に話すのはいけないことなのですが...。」
その医師はなかなか次の言葉を発しない。数秒後、彼は意を決したのか、一息吐きながら、口元を開いた。
「非常に言いにくいことなのですが...ご臨終です。」
その瞬間、僕の世界は止まった。彼女と一緒の講義に受け、暗闇の中イルミネーションに照らされたメリーゴーランドを2人で乗ったり、渋谷のセンター街の買い物帰りに一緒にアイスクリームを食べあった。そんな何気ない日常の、僕にとってはかけがえのない大切な日々。それがもう戻っては来ない。
僕がちゃんと記念日と覚えていれば、今頃2人でレストランで記念日を祝い、東京中の夜景を一望できる東京タワーにでも登っていたのだろうか。もっと早くあの飲み会を抜け出していたら、彼女は事故に会わずに済んでいたのだろうか。答えのない自問自答を延々と繰り返す。
(由紀子、お前がいなくなったら、俺は一体どうしたらいいんだ...)
僕は彼女の葬式には出なかった。彼女への思いが強すぎて、心が押しつぶされそうになる。和哉もそんな僕に必死に励まそうとしたが、全く聞く耳を持たなかった。大学はあと半年で卒業にも関わらず、退学した。彼女のいない大学生活はひどく退屈で、講義など出る気にはなれない。
僕はあのおんぼろアパートの自室で、彼女との思いでに囲まれながら彼女との日々を一つ一つ丁寧に思い出していた。常に頭によぎるのは彼女のある言葉だった。
『ねえ、明人さん。もし、私が死んじゃっても、私の事ずっと想っていてくれる?』
『なんだよ、縁起でもないな。そんなの決まってるじゃん。』
『ちゃんと、はっきり言って。いつまでも私のこと、愛してくれる?』
「おじいちゃーん!元気してたー!?」大部屋の引き戸を開けながら入ってくる、制服姿の快活な10代の少女。
「父さん、母さんの3回忌の行ってきたよ。おや、どうしたんだいそんな古いアルバムなんか持ち出して。」
「えー!?なになに、おじいちゃんの昔の写真?見せて見せてー。」と、少女が話しかけてくる。
「うわー、綺麗な人。これ、だれー?おばあちゃん?」
「彼女はな...。」と言葉を続けようとしたところ、
「五十嵐さん、これからお夕食です。みなさん、もう向かってますよ。五十嵐さんも行きましょう。」
『明人さん、今晩の夕食は何にしましょう?』