九死に一生のち九死
重い。物理的なそれではない。いや、今まで失われていた重さの感覚が蘇るような感じだった。
指先に力を入れた時に感じた筋肉が伸び縮みし、指先に硬い何かが触れる感覚とともに、体に掛かっていた金縛りのようなものから解かれたように体が軽くなっていた。
飛び起きるように体を起こすと、辺りには崩れた神殿の柱や天井の瓦礫が散らばっており、ここが少し前に見た場所と同じく、俺が元いた世界ではないことを物語っていた。
「……ここは……?」
辺りに誰かがいる様子もなく、崩れた神殿の周囲に村や町のようなものは見えず、三方向を山に囲まれ、恐らく入口があったであろう場所から一本の道が続いているだけで、向かう先が一つしかないことを物語っていた。
「……土地勘も名前も分からない場所だってのにどうしろってんだよちくしょう」
不貞腐れながら瓦礫を踏み越え、一本道の手前まで辿り着くと、自身の体の状態が今までと違うことに気付いた。
「あれ? 全然疲れてない……?」
そう、今までだったらこれくらいの運動しようものなら今頃節々が痛んでいる頃だった。しかし今はそんな様子は一つもなく、息一つ乱れてすらいなかった。
「これが異世界標準ステータスってやつなのか……」
ぶつぶつと独り言を続け、まるで不審者か何かのように周囲を探索していると、背後の茂みからガサガサと何かが動く音が聞こえ、咄嗟に振り返るとそこには見たこともないような姿をした、小さな鬼のような生き物がそこにいた。
「……これ、アレだよな、多分……ゴブリンてやつか?」
そんな独り言に答えたわけではないのだろうが、目の前にいるゴブリンらしきそれは威嚇するように鳴き声を上げ、手に持った棍棒を振り上げてこちらへ向かって来る。
大きさだけで見れば自分の腰より少し上くらいの背丈しかない人型の何かが近付いてくるだけであったが、俺の中の防衛本能が「逃げろ」と警告していた。
「う……うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!……来るな! 来るなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
いつだかに観たゲーム実況動画か何かの配信者が上げていたような情けない悲鳴を上げながら、俺は何故かゴブリンの方へ全力疾走していた。
「っちょうわぁぁぁぁ何やってんだ俺はぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
叫んだ所で足が止まるわけでもなく、情けない叫び声を威嚇か何かとして受け取ったのか、ゴブリンは先程よりも荒々しい声を上げていた。
「おねがいどいてぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
そんな叫びも虚しく、ゴブリンは止まることなく俺に向かって棍棒を振るい、全力疾走する俺の太腿に命中し、鈍い音を立てた後、俺の体はゴブリン達を越え、その先に転がるように投げ出された。
「ごあっ!……痛っぁ……は……?」
背中から叩きつけられるように落ち、咳き込んだ後、自身に起きた異変に気付いた。足に力が入らない。鋭くキリキリとした痛みが太腿に走り、先程の棍棒による一撃が原因というのはすぐに理解できた。だがこの状況が理解できなかった。
訳も分からずに死んだと言われ、転生させると言われ、目を覚ますと訳の分からない場所でゲームの世界にいそうな化け物に向かって叫び声を上げながら突っ込んで太腿を棍棒で殴られて、左足の太腿の骨を折った。
意味が分からない、これは夢だろう?随分と痛覚やら何やらがリアリティのある悪い夢だよなそうだよな。頼むそうであってくれ、こんなの笑えない。
「はは……マジか……俺こんなんで死ぬんか……あはははははははははははははは!」
目の前にある逃れられそうにない死が迫り、気でも触れたのか、狂ったように笑う事しかできなかった。
怖い、痛い、死にたくない。頭に浮かんだのはそんな思いではなく、意味が分からない、理解できない、そんな思いばかりでどこか虚しささえあった。
終わった。俺の異世界ライフ終わった。誰に会うこともなく、訳の分からないゴブリンみたいな奴らに棍棒で殴られてここで終わっちまう。
そんな自暴自棄のような感情だけが俺の頭の中を埋め尽くしていた。
「……あー……クソゲーだな……」
もう何度目か、もう何回言ったかも分からない口癖を零し、全てを諦めるように仰向けになり、手足を投げ出し、空を仰ぐと、皮肉にも雲ひとつない快晴の青空が広がっていた。
そして間も無く訪れる最期を待ち、目を閉じようとした時、青空を遮り、轟々と唸りながら燃え盛る火の球が通り過ぎ、少し先で爆発した。
体を起こし、爆発音が聴こえた方、先程までゴブリンがいた方を見ると、そこには黒く焦げたゴブリンだったものを中心に炎が広がっていた。
「……え?……俺、生きてる……?つーか今の何だよ……」
「すまない、急いで撃ったら加減が効かなかったんだ。 それよりも、怪我はないか?」
背後から聞こえた凛として透き通るような声に首を捻り、背後を向くと、膝下程まであるブロンドのサイドテールに青い瞳、人のそれよりも少し尖った耳、凛としていながらも儚さを兼ねあわせたような整った顔つきの少女が立っていた。
「あ……」
「……どうした? 私の顔に何か付いていたか?」
「あ、いや……状況がイマイチ飲み込めてなくてですね……」
「ふむ……この辺りじゃ見ない顔だが、名前は?」
少女は訝しげな様子で首を傾げ、俺の名を尋ねてきた。
普通尋ねる側が先に名乗るのが礼儀じゃ ないのか?と思いながらも抑え込む。かつてバイトでレジ打ちをしていたせいだ。ここで難癖付けて騒ぐのはクレーマーのやる事だ。
「あー、名前? えっと……悠里、初瀬悠里だ。 あんたは?」
「あぁ、すまない。 聞いた私が先に名乗るべきだったな」
「いやいや、お気になさらず」
「私はカタリナ・フォン・エルフェリア。 呼び方はカタリナでいい」
彼女はそう簡潔に自己紹介を終えるとしゃがみ込み、俺が押さえている太腿の方に手をかざした。
「えっと……一体何を?」
「ゴブリンに足を折られたのだろう? その手当だ。 じっとしていてくれ、すぐに終わる」
彼女がそう言うとかざされた手が仄かな緑色の光を放ち、太腿に走っていたキリキリとした痛みも引いていった。
「これで立てるはずだ。 どうだろうか?」
「お、おぉ……すげえ……治ってる……」
先程まであった鈍い痛みと吐き気が引いていき、足に力がしっかりと入る事が確かに伝わり、改めて生きているという事をひしひしと感じた。
「しっかしさっきの炎といい治癒といい、魔法ってやつか?」
「確かにそうだが……何であんな所にいたんだ?」
「あー……まあちょっと色々あって気付いたらここにいたんだよ……」
そう答えるとカタリナと名乗った少女は訝しげな様子でこちらを見つめ、どこか警戒しているようでもあった。
無理もない。何せ戦う為の武器も持たず、何も持たずにこんな所でゴブリンに襲われ、死にそうになっていた、恐らくここに住まう人々とは着ている服も違うのだろう。
ならば疑わしく思われるのも無理はない。どちらにせよ何を言ったところで怪しまれるのは変わらないだろう。
「多分な! 多分! 多分色々何かあってここにいたんだと思う……ただ上手く思い出せないんだよな……そう、名前以外はイマイチよく分からないんだ」
いけるか?いけるか?頼む通ってくれお願いします。
神に縋るようにそう願いながら誤魔化すように答えた。
「お前、記憶がないのか?」
「うーん、何とも言えないんだけどそれに近いと思うな。 だから此処がどこなのかもイマイチよく分かってないんだ」
「ほう……そうか……」
彼女の声の雰囲気から察するに、どうやら疑いは晴れなかったようだ。
目の前に立つ少女は杖を構え、その先端に炎の球を作り出し、それを此方へ向けた。
「ちょっ! ま、待ってくれ! 何でそれをこっちに向けるんだよ!」
「記憶が無いと言うのも不自然だし、何より武器も持たず、あんな遺跡の近くにいる事そのものが不自然だ」
「ですよねぇぇぇぇぇぇぇ!」
向けられた炎の球はちりちりと大気を焦がしながら燃え盛っていた。アレを食らえば恐らく後ろで黒焦げになってるゴブリンの残骸と同じようなザマになるだろう。
「あ、あのう? お話最後まで聞いてもらえませんかぁ?」
「それはこの火球に耐えたなら考えてやろう。 さっき助けておいて悪いが、ここで炭になれ!」
「ふっざけんなぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
叫びながら真横の茂みへ飛び込み、すかさず体を起こし茂みを掻き分けながら走り出す。
「クソッ! 何なんだよ! チュートリアルからこんなにハードモードなんて聞いてないぞ! 俺が今いるのは死にゲーの世界じゃねえんだぞ! これ死んだらもう終わりなのに何でこんなに鬼畜なんだよふざけんな!」
茂みを掻き分ける度に梢が手の甲や腕に強く当たり、所々に擦り傷や切り傷ができているだろう。だがそんな事を気にしている場合では無いし、立ち止まる余裕なんてとてもない。
木と木を縫うように逃げ回っているが、すぐ後ろで火球が破裂する轟音が轟き、森を焼き払っているのが見なくても分かった。
「ええいちょこまかと! 大人しく黒焦げになれと言っているだろうが!」
「ふざけんな! 死ねって言われて大人しく死ぬ馬鹿が何処にいるんだよ!バーーーーーーーカ!」
「なっ……馬鹿だと……? 私を馬鹿呼ばわりしたな? もう許さん! 死ね!」
「人の話最後まで聞かないくせに馬鹿呼ばわりされたらブチギレって理不尽にもほどがあるだろ!」
そうして息を切らしながら火球を避け、逃げ回っていると、目の前に大きな岩が目に入った。大きさは人一人が隠れるには十分過ぎる程の大きさ、これならしばらく火球を凌げるだろう。
「ぜぇ……ぜぇ……ちくしょう……何なんだよあいつ……助けてくれたと思ったから今度は殺意剥き出しで何か飛ばしてくるじゃねえかよ……クソゲーかよ……」
「そこにいるんだろう! 出てこい!」
「出てこいって殺意剥き出しの相手に言われてはいそーですかで出てくるわけねえだろ!」
「だったらこのまま岩盤焼きにしてやる!」
彼女がそう叫んでからしばらく経つと、炎凌ぎに凭れ掛かっていた大岩がとても触っていられないような程の熱を放ち、岩の近くの大気が揺らめき始めていた。
「おいおいマジかよ岩ごと溶かす気かよ冗談じゃねえ……」
この岩が無くなったらその先にあるのは行き止まりになって立ちはだかる崖だけ。ここで何か動きを取らなければ俺の未来は黒焦げになった炭みたいな何かだ。
冗談ではない。訳も分からないうちに死んで、訳も分からないうちに生き返らされて、訳の分からない世界に飛ばされて、死に掛けて、また死んでたまるか。
そんな理不尽に対して俺が抱いていた感情は、かつて投げ捨てていた、理不尽なまでに理不尽を詰め込んだような難しいを何処か履き違えたゲームをやった時のような怒りだった。
そんな時、女神から言われた言葉を思い出した。「チートになり得る能力」何だそれは?いや、でもチートになり得ると女神は言った、ならばそのチートを行使するのは今みたいな理不尽にぶち当たった時ではないだろうか?
「……なんか起きろよ、あのバカ女なんとかしろよ……あのバカ女の魔法無効化とかもう何でもいいからあいつを止めてくれ!」
しかし何が起こる事もなく、大岩は赤々と光り始め、じきに溶け出し、そして弾け飛ぶのも時間の問題だった。
何かやるしかない。この大岩の向こう側にいる石頭を止めるしかない。
でないとこのままゲームオーバーだ。助かったと思ったらまたゲームオーバーだ。
「ちくしょう……ちくしょう……ふざけやがって……この岩ごと、吹き飛べぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!」
最早ヤケクソだった。煌々と輝く大岩に向かって自分にとって渾身の一撃を叩き込んだ。
どうせ無駄だろう。精々派手に手を火傷する程度だと思っていた。しかし、拳に伝わってきたものは俺の予想を覆した。
熱くない、それどころか岩を殴った感覚さえない。ただ起きたのは、拳を叩き込んだ場所を起点に大岩が弾け飛んだという事だけであった。