8.新しい出発
美月はおれを二階の部屋に案内した。そこはタイムトラベルで訪れた美月の部屋だった。今もあのときとあまり変わっていない。ただ、机の上にはパソコンやプリンタが置いてある。
「ねえ、トシヤくん。あなたはこの部屋に入るのは初めてかしら」
おれには質問の意図がよくわからなかった。
「いや、一度だけ入ったことがある。高校の卒業式の帰りだ。そのときおれは美月にキスをした」
おれの答えを聞いて、美月の顔にうれしそうな表情が浮かんだ。
「そうよね。ああ、よかった。変なことを訊いて、ごめんなさい。実はね、わたしにはよくわからなかったのよ。卒業式からの帰り道で、あなたはわたしにただ頑張れとだけ言って、そのまま別れてしまったという記憶があったの。そのあと、わたしはとっても悲しかった」
おれはギクリとした。その記憶は確かに正しいのだ。
「でもね、帰り道でわたしに好きだと言ってくれて、この部屋でキスしてくれたという記憶もあるのよ。どちらの記憶が本当なのか、自分でもよくわからなかったの。でもわたしは、あなたが愛の告白をしてくれた記憶の方をずっと信じていたの。だから辛い結婚生活にも耐えて、今日まで生きてくることができたのよ」
そうか、あのタイムトラベルでの出来事は、おれの記憶の中だけではなくて、美月の記憶の中でも同時に起こっていたんだ。おれは、人間の記憶は深いところでみんなつながっているという占部氏の言葉を思い出した。
「でもね、わたし離婚しちゃったんだ。離縁されちゃったという方が正確なんだけどね」
美月はちょっと照れくさそうに笑った。
「えっ、どうして。何かあったの?」
おれは驚いて尋ねた。
「うん、主人は仕事は熱心だったんだけど、女癖が悪くてね、あちこちに愛人を作ってたわ。わたしはそれでも我慢してた。でも、わたしには子どもができなくて、とうとう愛人の一人が妊娠しちゃったの。それで主人はわたしを離縁して、その愛人と再婚したわ。慰謝料として、それなりのお金はくれたけどね」
そうだったのか。美月もずいぶん辛い思いをしたんだ。おれは美月のことがいとおしくなった。
「でも、離婚してかえってせいせいしたわ。それからは遠慮なく、あの日のトシヤくんとのことばかり思い出してたの。もうずっと会うことはないと思ってた。でも今日こうして、トシヤくんがここにわたしに会いに来てくれた。だから、とってもうれしかったのよ」
「おれもだよ。美月……」
おれは美月の目を見つめた。美月もおれの目を見つめていた。おれは美月の肩を抱き寄せ、そっと口づけをした。あのときと同じように。そしてそれは、あのときとまったく同じ、和菓子のような甘くて柔らかいくちびるだった。
長い口づけを終えると、おれは美月に言った。
「美月、半年だけ待ってくれ。おれは今は失業中だが、必ずちゃんとした仕事に就いて迎えに来る。だから、それまで待っていてくれ」
「ごめんなさい」
美月は顔を伏せながら答えた。
ああ、やはりだめだったか。おれは落胆した。しかし、美月はまた顔を上げて言った。
「ねえ、トシヤくん。わたしは今ね、家でネット通販の仕事をしてるの。秋の月とかうちの商品を中心に扱ってるんだけど、店頭よりずっと売れ行きがいいのよ。それに父の介護もあるから、当分はうちを出るわけにはいかないの」
おれは何も言えなかった。美月は話を続けた。
「ネット通販も他のお店の依頼を受けて、洋菓子とかお総菜とかも扱ってて、それも好評だから、ものすごく忙しいの。だから、もしよかったらだけど、トシヤくん、この仕事を手伝ってくれないかしら」
意外な申し出だった。もちろん、失業中のおれに異存があるはずもない。それに美月の仕事を手伝えれば、こんなにうれしいことはない。おれは承諾した。
「それからね、もう一つお願いがあるんだけど」
美月はおれの目をじっと見つめながら言った。
「半年後じゃなくて、今、言ってほしいの……」
おれはうなづいた。そして今度は、おれが美月の目をじっと見つめながら言った。
「美月、おれと……結婚してくれ」
「はい、わたしでよければ」
美月はにっこりとほほえんで答えた。
そのとき部屋のドアが開いた。五月が駆け込んできて、美月に抱きついた。
「美月おばさま、おめでとう。よかったね、よかったね」
五月は泣きじゃくった。
「まあ、五月ちゃん。人の話を立ち聞きするなんて、いけない子ね。お義姉さんにいいつけるわよ」
すると今度はドアの方で兄嫁の声がした。
「ごめんなさい、わたしも一緒に立ち聞きしちゃった」
兄嫁は照れ笑いしながら部屋の中へ入ってきて、おれと美月の手を取った。
「美月さん、トシヤさん、おめでとう。二人で協力してお仕事の方もがんばって、うちの商品をどんどん売ってちょうだいね。期待してるわよ」
おれと美月は顔を見合わせて笑った。五月はまだ美月に抱きついて、泣きじゃくっている。
おれは占部夫妻のことを思い出し、心の中で何度も礼を言った。そして、これから美月と一緒に新しい人生を歩んでいこうと胸に誓ったのだった。
(完)




