ほこりだらけの部屋
……目を覚ますと、薄暗い自室で横になっていた。最初にヘッドフォンをつけた時と全く同じ体勢で寝ていたらしい。慌ててヘッドフォンに耳を澄ませてみたけれど、何の音も聞こえない。どうやら施術は終わったようだった。ぼんやりする頭を振って身を起こし、枕もとの目覚まし時計を手に取ると、あの夢の中と違い、規則正しく時間を刻んでいた。
ヘッドフォンを外し、リビングルームへ入った。そこには当然だけど、リアルに90分を使って繰り広げられた脱出ゲームの痕跡など影も形もない。結局、あの夢はいったい何だったんだろう。亘理さんや、最後の階層でたぶん助けに来てくれたんだろうエージェント、それからあの、テレビの通販番組で僕と会話していた高校生くらいの男子。あれは結局夢の中の出来事で、実際には存在しない、僕の想像上のキャラクターだったとか? でも、爆発の瞬間のあの耳の痛みとか、鍵を開けた時のあの手応え、鋼鉄製のテレビの重さは、しっかり覚えている。何となく、僕はテーブルの上を眺めた。
あそこにアトラクタの箱があったのは、偶然なんだろうか。名前に関する僕の記憶は、いつでもあのテーブルを中心にしていた。カウンターキッチンを背にして、奥に父、手前に母、そして父の向かいに僕。それが定位置だった。学校から帰ってきて命名書を見せてもらった時だって、僕はそこにいた。
「……そうだ、神棚」
夢の中で思い出したことは、確かに鮮明に頭の中に残っていた。神棚の上から父が出してきて、両親で説明してくれた僕の命名書。
僕は思わず周囲を見渡した。神棚はこの部屋に帰ってきたとき確認した。といっても神棚をどうすればいいのかなんてわからないから、確認した後すぐに忘れてしまったんだけど。今はもう違う。名前に連動して、僕は両親のことも少しずつ思い出し始めていた。確か場所は、リビングじゃなく、和室の方だったはずだ。和室は父の仕事部屋だ。
いてもたってもいられず、僕は和室へ通じるふすまへ向かった。
でもふすまを開けても、そこには何もない。仕事用の机と本棚。本棚にはほこりがたまり、使われた気配がもう影も形もない。
父がいないのはなぜなんだろう。母はどこにいるんだろう。襲ってきた不安を振り払おうと、僕はため息をついて和室に上がりこみ、神棚を探した。仕事机のある、窓際とは対角線上の角の上、天井付近に作られた板と小さな社。天井には黄ばんだ紙で、【雲】と書かれている。あれが神棚だ。
僕は机の下に押し込まれた椅子を引っ張り出し、ほこりをはたく。ぶわっと舞い上がった煙のようなものに鼻をやられ盛大にむせてから、僕は神棚の下に椅子を置いた。安定していることを確認して、その上にあがる。
神棚の上を覗き込んですぐに、僕はほこりをかぶった小さな冊子と、木の箱と、そしてその奥に、A4サイズの額縁に入った紙をみつけた。額縁に入った紙には、これどうやって書くの? ってくらい達筆で、家族の名前がつづられている。
「【平成三年十一月十日生 命名 仁隆 父 桜庭治隆 母 桜庭美咲】……」
これだ。命名書。
僕は手を伸ばして額縁を手に取ると、慎重に椅子から降りた。手でほこりを払いながらリビングへ戻る。テーブルの定位置に座ってそれを眺めた。
両親が愛し合って僕が生まれ、それを祖父母が喜んでくれた。それを証明するものがこの命名書だ。
なのに、その家族が今一人もいない。目が覚めた時も、退院するときでさえ、僕の周りに誰か家族がいたことなんてなかった。そして僕も、家族の存在すら頭の中からきれいさっぱり消え去ってしまっていた。僕が5年間眠り続けていた間に、僕の家族に何かが起きたんだろうか。いや、そもそもだ。記憶喪失だからって、「自分に家族がいたこと」さえ忘れてしまうことなんてあり得るんだろうか?
それともこれって、あの夢の中にあらわれた侵入者とか、関係してたり……するのか?
……突然固定電話が着信を告げて、物思いにふけっていた僕は我に返った。命名書をテーブルの上に置いたまま慌てて立ち上がって、固定電話に向かう。そしてそのまま受話器を取った。
「……もしもし?」
『桜庭仁隆さんのお宅ですか』
聞いたことのある声が受話器から聞こえてくる。僕は一瞬、自分の耳を疑った。聞いたことのある声だ。というか、ついさっきまで聞いてた声だ。
僕は一瞬だけ考えて、それから小さな声で呼びかけてみた。
「……もしかして、亘理さんっすか」
『よかった、覚えていてくださったんですね』
亘理さんは少し嬉しそうに、そう返してくる。確かにそれは、夢の中、テレビの向こうから僕にヒントを出してくれていた、亘理さんの声に間違いなかった。
「……にしても……実在したんすね、亘理さんって」
『ええ、実在の人物ですよ。【NR-system】の見せた幻だと思ってました?』
悪戯っぽくからかわれて、僕は言葉に詰まる。思わず口が滑ったけど、僕のこの反応ってめちゃくちゃ失礼じゃないだろうか。
けれど、こちらが謝る前に、亘理さんが話題を変えてきた。
『そうそう。よろしければこれからそちらへお伺いしてもよろしいですか。ちょうど近くまで来ているもので』
僕はわかりましたと頷いて、出しっぱなしだった段ボール箱と、2時間以上も外にほったらかしにしておいた牛乳パックをちらっと見た。一応お客さんが来るんだから、あれは見えないところに隠しておくのが吉だろう。あとは床をモップか何かで拭いて、牛乳はもうあと一口も残ってなかったはずだし、もったいないけどシンクに捨ててしまうことにしよう。
いつごろ亘理さんが来るのか確認した後電話を切って、僕は掃除の工程を頭の中で思い浮かべながら、突然戻ってきた夢と現実に苦笑する。
……やれやれ。牛乳残り少なくて助かった。