リアル脱出ゲーム
『桜庭さん、後ろのテーブルに黒い箱がありますね』
時間が惜しいんだろう、感慨も何もなくテレビ越しに僕の背後を示す亘理さん。僕は戸惑いながらも後ろを振り返った。……まあ、振り返らなくたってその黒い箱はものすごい存在感をかもし出しているわけだけど。
『その黒い箱が記憶の断片を封じ込めた箱、通称【アトラクタの箱】です。忘れてしまった記憶、忘れてしまいたい記憶、隠しておきたい記憶などが、夢の中でこうした箱に守られて出現します。つまり、この箱を解錠できれば、失われた記憶が復旧されるということです』
僕はテーブルの上にある黒い箱を覗き込む。見れば見るほど不思議な箱だった。素材が何なのかもわからない。ふたと本体のつなぎ目がどこかのかも、その表面にどうしてノイズみたいなのが走っているのかも。夢の中の箱だからってのもあるのかもしれないけれど、やっぱり箱はこの空間の中で何よりも異質なものに感じられた。
「これ、開ければいいんすか」
『はい』
「……落としたら壊れて中身が出てくるとか」
『それを期待する気持ちはお察ししますが、エージェントが以前、実験でアトラクタの箱に爆弾を仕掛けたことがありましたが、表面に傷一つつきませんでしたよ』
「……ブラックボックスかよ」
『そうですね、概ねそのようなつもりで見て頂ければと。傍に鍵があるはずです、それで解錠してみてください』
鍵ね、と復唱して、僕はテーブルの上を見渡した。探すまでもなく、箱の影に同じく黒い鍵が置いてある。鍵も何の素材でできているのかわからない。箱と違うのは、鍵にはノイズが走っていないことくらい。重くて大きな鍵はどことなくシンプルな印象を与えた。
意味も分からず緊張していた僕は深呼吸――まあ、そんなものがこの夢の中でどれだけ意味があるのかわからないけれど――をして少しだけ気を落ち着けると、アトラクタの箱に向き直った。
「それじゃ開けます」
『……お願いします』
僕は慎重に鍵を箱の真ん中にあいている鍵穴に差し込んだ。それからそれからもう一度深呼吸して、取っ手の部分をゆっくりとひねる。かち、という音とともに、軽い手応え。箱から一切のノイズが消えた。不思議な質感の、冷たくも暖かくもない鍵と箱は、何か反応があるでもなく静まり返っている。その沈黙に耐えられなくなった僕は、助けを求めてテレビを振り返った。
「こっ……、これで、いいんすか」
『はい、お疲れさまです。あとは箱を開けて中のピースを回収してください』
そうだった。僕が慌てて鍵から手を離すと、アトラクタの箱は自分からそのふたを開く。僕はおそるおそる、その箱の中身をのぞき込んだ。
黒い箱の中に、白く光って見える何かのかけら。おそるおそる取り出してみると、それはパズルのピースのようだった。ジグソーパズルのピースのように、一辺がでこぼこしている。
僕はそれをじっと見つめた。僕が依頼したのは、僕の名前についてだ。確かに、僕の名前は桜庭仁隆だとわかっている。けれどそれは、担当医に頼んでカルテを見せてもらい、名前を確認したからであって、僕は今でもその名前にピンと来ていないのだ。それから、この冗談みたいなサービスがちょっと信じられなかったってのもあるし。とにかくその名前について、何か思い出せそうな気がする。何か。
――風疹って本当に怖いのよ。あなたがママのお腹の中にいる時もね、同じ病院に入院していた妊婦さんの一人がかかってしまって――
「……風疹」
でも思い出したのは、名前と関係なさそうな記憶だった。風疹といえば、病院でリハビリしているときも何度か耳にしたことがある。最近妊婦さんの間で風疹にかかる人がいて、問題になっているって。妊婦さんが風疹にかかってしまうと、お腹の中の赤ちゃんにも障害が出てしまうってテレビでやっていたのだ。
母に、そうやって風疹にかかった妊婦さんの話をされたことがあるんだ、僕は。それを、おぼろげながら思い出した。
『桜庭さん、何か思い出されましたか』
「んー……いや、なんか名前とあんま関係ないかも……」
亘理さんが問いかけてくる。僕は振り返り、首を傾げて後頭部を掻き回した。だって風疹だ。僕が風疹にかかっていようがかかっていなかろうが、名前とは大して関係ないと思う。僕が生まれた時に両親が風疹にかかっていて、とかだったらものすごい問題になるだろうけど、幸いそういうわけではないようだし。
しかし、亘理さんはそうは思わないらしかった。
『エージェントが解錠できるアトラクタの箱は、お客様がご所望になった記憶の断片に限られます。それ以外の記憶に干渉するのは、明らかな越権行為ですから』
「うーん……そういうものなんすか」
越権行為というなら、夢の中に入り込んでくることも十分そうだと思うけど。……とは、やっぱり勇気がなくて言えない。でも僕の反応は亘理さんには想定内のものみたいだった。画面の向こうで亘理さんがはっきりとうなずく。それから僕の後ろにあるアトラクタの箱を見て、言葉を継いだ。
『ええ。もともとこの空間も、エージェントが潜行するためにマウントされた夢です。いろいろと想定外の出来事が多すぎて断言はできかねますが、今桜庭さんが取り戻された記憶の断片もおそらく、ご依頼の記憶に関係するものだと思います』
「……でも、風疹っすよ?」
『風疹?』
僕はかいつまんで今思い出した記憶について説明した。亘理さんは僕の話を聞きながら、顎に手をやって何か考え込んでいるらしい。僕の説明が終わってしばらくして、亘理さんは顔を上げた。
『風疹の予防接種は乳幼児期に一度、その後、小中高のいずれかで一度。平成生まれで現在22歳男性である桜庭さんの場合、2度目の接種を受けていない可能性があります』
「……なんか、ものすごい医療事務的な感じの解説っすけど。俺の名前と風疹とで、なんか関係があるんすか?」
それについてはわかりません、と亘理さんはきっぱり答える。もうなんていうか、ああそうですかって言わざるを得ないくらいきっぱりと。たださっきの亘理さんの言い分が正しいなら、この風疹の記憶は必ず僕の名前に繋がっていくもののはずだ。さてあとは……。
と、考えてから、ふと首を傾げた。……あとは、どうすればいいんだ? 説明書では90分の施術の後、記憶ははっきりと戻っているはずだということになっている。でも、このまま目が覚めても、僕は母と風疹の話をしたことくらいしか思い出せていないことになるだろう。
パズルのピースを見下ろして考える。パズルっていうのは、ピース一つじゃ何の意味も持たない。いくつかあるのをつなぎ合わせて、それで初めて意味を持つ。そういえば亘理さん、10個ピースを集めると記憶が復元できるって言ってたっけ。うわ、嫌な予感しかしない。
そこまで考えたところで、不意に変な感覚に襲われた。何だろう、自分の周りがぐるりと回ったような。自分の足元は何もないのに、突然床と天井がぐるりと一回転したような、というか……。その感覚はすぐに終わったけれど、周囲を見渡した僕は、その変な感覚がもたらしたんだろう異変にすぐに気が付いた。当然だ、だって開けたはずの「アトラクタの箱」が、いつの間にか閉まっているんだから。その上、鍵穴に差し込んだままにしてあった鍵も、いつの間にかどこかへ行ってしまっている。僕は自分の顔が引きつってくるのをはっきりと自覚した。ダメだろこれ。他にも何かいろいろ物の場所とかがリセットされてるくさいし。
『2層目に入ったようですね』
でも、僕とは正反対に少し安心したような声で、亘理さんはそうつぶやいていた。振り返った先の液晶テレビの中で、ほっと胸をなでおろしている。まあ、イレギュラーが起こりすぎて、なんかいろいろおっかなびっくりって感じなんだろうな、あっちも。
それにしても2層目。僕は軽い失望とともに盛大にため息をついた。嫌な予感はどこまでも的中する運命にあるのだ。2層目ってことは、まだまだこの解錠ゲームは続くってことになる。たぶん90分いっぱい、僕は鍵を探してこのリビングをさまようことになるのだ。しかも何度も、同じ作業をするために。さすがに作業を一通り経験して、もう戸惑いみたいなものはないけど、できれば一層目でぱぱっと記憶が戻ってほしかったっていうか……。
そう思っていると、亘理さんがスーツの袖をめくって腕時計を確認した。それからやや慌てたように口を開き、やっぱりというかなんというか、想像はしていたけど、それでもやっぱり言ってほしくなかったことさらりと言った。
『お……っと。もう残り60分しかない。記憶のピースは残り9つ。今取り戻された記憶を手繰って、次の解錠へ移りましょう』
「…………」
『……桜庭さん? どうしました?』
不審そうに、亘理さんが問いかけてくる。……正直なところ、僕はこれで終わりだと思っていたんだけど、だなんて今更言えるわけがない。だって前々から、亘理さんはピースを10個集めるとか、思い出してみればまだまだ続くよ的なフラグを乱立させてたし。でもそれにしたって残り9個って。これ本当に90分で……いや、もう60分しかないんだけど、それでどうにかできるのか。やっぱりここにエージェント呼んだ方がよくないか。
そう言おうと思ったけれど、やっぱりそこまでやって自分が永遠に目覚めなくなったら……とか、変な妄想をしてしまいそうになって、怖くなった僕は、半ばやけっぱちのつもりで、
「そっすね! それでいきましょう!」
……と、変にテンションを上げてうなずくしかなかったのだった。