誰かが見てる
>>潜入日時: O/XX 11:24
>>依頼者: 記憶喪失の青年
>>依頼: 自分の名前
>>パートナーが具現化したアイテム: なし
>>同期完了 潜入しています...
……目が覚めて、真っ先に耳に当てているはずのヘッドフォンを意識した。クラシック音楽は相変わらず流れている。どうやら眠ってしまったのはほんの少しの間らしい。なら、たぶんこれは施術の途中だ、ヘッドフォンははずさない方がいい。僕はいつの間にか眠ってしまったことに少しの気恥ずかしさを覚えた。いくらリラックスして誰も邪魔しない場所で受けろって言われたからって、寝るとか。ていうか、寝ちゃって大丈夫だったんだろうか。
しかし僕は、ふとそこに変な違和感を覚えた。何だろう、この妙な感覚。少し開けていた眼をもう一度閉じなおして、僕は心の中で首を傾げた。寝起きだというのに妙に頭はクリアだし、何よりものすごく誰かに見られているような……のぞき込まれているような……。
意を決してもう一度目を薄く開くと、見慣れた自室の光景が見えた。窓からは黄昏の朱い陽光が差し込んでいて、もう随分眠っていたんだと……あれ?
僕は思わず顔を上げて窓を見た。施術は90分、ヘッドフォンは相変わらず施術用のクラシックを奏で続けている。つまり今は、僕がベッドに寝転がってからさして時間がたっているはずがないわけで。当然、午前中に寝転がって90分も経ってないのに、日が沈むとかありえないわけで。それにもっと言うなら、僕はヘッドフォンをつける前に全部のカーテンを閉めたはずだ。
どうしても気になった僕は、ヘッドフォンをつけたまま枕元のNR機器を手探りする。それは当然と言えば当然だけど、ベッドに横になるときに置いたそのままの場所にあった。僕はそれを手に取ると、ゆっくり身を起こす。同じように枕元におかれている目覚まし時計をのぞき込むと、ふつうよりも遙かに速く、逆向きに回っていた。
そうか、これは夢なんだ。僕はそのときになってようやくそう自覚した。不思議と戸惑いはない。なぜか、以前もこんな風に夢を夢として自覚することがあった気がするのだ。僕は本格的に起き上り、ベッドの上に座り込んだ。
それにしてもこんなにリアルで、しかも、こんな風に自由に動き回る夢があるものだろうか。それともこれは、もしかしてこの【NR-system】が関係しているのだろうか。
ふと、先ほどから感じている視線が気になった。それは視線と呼んでいいものかどうかもわからない。とてもあいまいなものだった。誰なのかも、どこからなのかもわからない、僕を覗き込んできているような視線。いいや、この夢を覗き込まれているような、そんな視線。夢の中だっていう自覚はあるのに、それだけが現実と重なっている感じがして、嫌な感じだ。
「……誰か、いるのか?」
小さく声を上げてみる。それに、視線が応えた。まるで動揺したように、気配みたいなものが揺らぐのを感じる。僕はもう一度声をかけてみることにした。
「……誰か、見てるんだろ?」
……やっぱりだ。誰かがどこかで見てる。しかも、僕がここでその視線に気づいたことに、かなり動揺しているようだ。僕は周囲を見渡し、その視線がどこから向けられているのか調べようと思った。けれど、やはりあいまいすぎてうまくいかない。
僕は鼻を鳴らした。面白くない。僕の夢を、誰かがのぞいている。誰かに踏み込まれそうになっている。
「出て来いよ。頭の中を覗き込まれるなんて話、俺は聞いてない」
半ば意識的に、一人称を変えてみる。それだけじゃなくて、やや怒ったような言い方をしてみた。……返事は、ない。動揺しているような感じはするけれど、なんとなく、応えられないのかもしれない。
僕はそれなら、と周囲に視線をやりながら、ベッドをゆっくり降りた。念のため、NR機器の本体をそのままジャージのポケットに突っ込み、リビングへ向かう。
「出てこないなら、こっちから探してみようと思うけど。まだ音楽途中だけど、いいよな。ダメならダメって言ってくれよ」
耳を澄ませてみたけれど、どこからも制止の声も気配もなかった。見張られている視線は感じるのに、それがどこなのかわからない。何か事情があるのかもしれないけれど、それでもやっぱり面白くないものは面白くなかった。
相変わらずヘッドフォンから流れているクラシックは癒し系で、でも、いやにくさくさしている今の僕の心にはあまり効果がなくなっている。僕はリビングに足を踏み入れた。夕暮れの光が差し込む部屋を見渡すと、見慣れた景色の中、部屋の中央に置かれたテーブルの上に、にひときわ目立つ大きな箱が置かれている。真っ黒で、どこからあけるのかわからない立方体。真ん中に鍵穴があって、箱の表面全体にノイズのようなものが走っている。実際に見たことがないはずだけれど、明らかに不自然なそれを見て、僕は嫌な印象を受けた。違和感丸出しのそれに眉をしかめる。と、かさりと何かが音を立てた。それは嫌に大きく響いて、驚いた僕は反射的にそっちを振り返る。突然目の前に何かが落ちてきた。
「わ、わっ……!」
叫んで腕を振ると、かさっと音を立てて腕に落ちてきたものが引っかかる。僕はそのまま勢い余ってしりもちをついた。まだ若干部屋の真ん中にあるテーブルには距離があったから頭を打たずに済んだけど、冷静になってみるとものすごく恥ずかしい。こ、転んでないぞ。ビックリしてないぞ。ただちょっとその……うん、目の前に降ってきたものが邪魔でちょっとバランスを崩してみただけだ。
誰に向かって言い訳しているかというと、それはもちろんこの夢を覗き込んでいる視線に向かってだ。僕は咳払いしながらその立ち上がり、足元に落ちた紙を拾い上げた。ペンか何かで書かれた手紙のようだった。どうやらこの【NR-system】の関係者から、僕に宛てたメッセージらしい。
【桜庭仁隆様
この度は弊社のサービスによりご不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ございません】
……なんといえばいいのか、何とも言えず不気味な感じだ。視線には気づいていたし、ちゃんと反応してくれっていうこちらの要求にこたえてのことだと思うんだけど、……これはちょっと、ホラーじゃんっていうかなんていうか……。
ふと足元を見れば、さっき紙を拾ったそのままの場所にもう一枚紙が落ちていた。何この現象これはこれでかなり怖い、と思いつつも拾い上げて、そっちも読んでみる。
【このサービスは、お客様の夢へ弊社エージェントが潜入し、アトラクタの箱を解錠することによって失われた記憶の断片を回収、記憶を復元するというものです。しかし諸事情により、今回エージェントが撤退しなければならない状況になってしまいました】
ちょっと待て。なんだそのエージェントが潜入とか撤退とか。プライバシー云々とか、そういうところから見て夢にエージェントとはいえ他人が入ってくるのもなんだか不快だけど、諸事情によりそのエージェントが撤退したってことは、もしかして僕は、とんでもない場所に今立たされているってことか?
「あの、俺もしかして、めちゃくちゃ危険なんすか? もしかしてヘッドフォン外してすぐに夢から覚めろとか」
にわかに不安になり、僕は二枚のメモをにぎりしめたまま周囲を見渡して、メモを書いた会社の人だろう、その人に向かって呼びかけた。ビビッて敬語になっているのはもう、これは仕方のないこととして気にしないでほしいと思う。
しばらく沈黙が続いた。いい加減黙っているのも限界になったところで、今度は家の固定電話が鳴る。思わず驚きのあまり変な声が出た。僕はさらに恥ずかしくなり、盛大に咳払いして、歩調も荒く着信メロディが鳴りっぱなしの固定電話へ向かう。
言ってないぞ。僕は言ってないぞ。「ぅえぇぇぁぃ!?」みたいな日本語にするのも難しいような悲鳴なんて上げてないぞ。
僕はそのまま受話器をむしり取るようにして、ヘッドフォンの上から耳にあてた。
「もっ……もしもし?」
『桜庭仁隆さんですね』
「え……あ、ハイ、そっすけど」
戸惑っている僕の態度など気にしていないようで、夢の中で僕に電話をかけてきたその男の人は、緊張感を隠そうともせずに早口で言葉を継いだ。
『株式会社ムネモシュネ開発部門担当の亘理と申します。この度は弊社の不手際に巻き込みご迷惑をおかけいたしました。今回エージェントがそちらから撤退したのは、事故による危険を察知したからではありません。ご安心ください』
「えっあ、そうなんすか。でもじゃあ、なんで」
『申し訳ありませんが、詳細を今お話ししている暇はありません。とりあえず……そうですね、電話では片手がふさがってしまいます、お手数ですがご確認いただきたい、今その部屋にテレビは』
テレビ。言われて僕はうなずいた。思い出すまでもない、ここは僕の家のリビングだ。最近の記憶しか無いとはいっても、部屋の配置くらいはちゃんと覚えている。どのくらいの大きさのテレビで、どこに電源があって。でも、そういえばこれは電話なんだから、うなずいただけじゃわからないんじゃないかと変なことが気になり、あります、と声に出して答える。
すると、電話の向こうの男の人は、少しだけ笑っているような声で、わかりました、というなり、僕に指令を与えてきた。
『ではこの電話を切って、すぐにテレビの電源を入れていただけますか。通常のチャンネルがある直接入力ではイメージが固定化されているでしょうから……外部接続2に合わせてください』
文句を言う間もない。僕があっけにとられてあ、わかりましたとか緊張感のない声で返事をすると、男の人はではお願いいたします、失礼しますときっぱりだけど急ぎ足であいさつして、そのまま電話を切ってしまった。
……な、なんなの、これ。
受話器を置いた僕はしばらくあっけにとられていたけれど、電話を切る前に急いでテレビの電源を入れろと言われたことを思い出し、慌ててテレビの前へ走る。リモコンを拾い上げて電源を入れ、入力切替ボタンを数回押して、外部接続2に合わせた。
こちらが準備を終えると、画面いっぱいに若い男の人が映った。明るい灰色で細身のスーツにお洒落なネクタイをぴっちり締めて、銀色の縁がある眼鏡をかけている。明るい肌色に若干釣り目の整った感じの顔立ちのイケメンだ。でもそんな容姿の特徴より、いかにも真面目そうな、有能そうな雰囲気がにじみ出ている人だった。できる営業さん、あるいはやり手エンジニアって感じのイメージだ。
その人は僕にしっかり視線を合わせてから、深く頭を下げてくる。
『桜庭仁隆さんですね。先ほどお電話した亘理と申します。この度は誠に申し訳ありませんでした』
「はあ……わたりさん」
声は確かにあの男の人だった。会ったことのない人だけど。
亘理さんは、テレビの向こうで顔を上げると、こちらに向かって問いかけてきた。
『いくつか質問を。桜庭さん、ご気分は』
「へっ?」
『気分が悪い、目が回るなどの症状はありませんか』
突然の質問に面食らう。けど、慌てて足下から自分の体を見回し、何とか頭を振って答えることに成功した。
「な、ない。ないっす」
『それはよかった。では、この夢で私のモニタリング……視線に気づかれたのは』
「目が覚めてすぐです。夢の中で目が覚めるってのもなんか……あれっすけど」
『なるほど、それは失礼しました。では最後に、この夢の中で起きた出来事をきっかけに、何か思い出されたことなどは』
「……や、まったく」
『そうですか。大体の事情は把握できました、ありがとうございます。その様子だと、桜庭さんの脳に悪い影響がでているわけではないようですね』
「は!? 悪い影響って……もしかして、実はめちゃくちゃ危なかったんすかこれ!?」
驚きのあまりテレビに向かって叫ぶ。……うん、でも冷静に考えると、この状況かなりシュール。
でも、そんな僕の状況を知ってか知らずか、亘理さんは頭を振ってかすかに笑って答えた。
『いえ、危険な状態にはなっていないと思われます。ただ、今回のケースは弊社でも未確認の事例です。エージェントの潜入はやはり見合わせるべきでしょう』
「そ、そっすか……?」
事情がわからない分、不安しかないんだけど、亘理さんは今、僕に状況を説明する気は全くないようだ。ここはさらに押して、事情をしっかり説明してもらった方がいいんだろうか。そう思った僕の頭の中を読んだようなタイミングで――いや、実際はそうではないんだろうけど――亘理さんはまた口を開いて言葉を継いで、僕の意図を封じてしまった。
『【NR-system】でエージェントがお客様の夢と記憶にアクセスできるのはせいぜい90分が限界。それ以上の潜入は不可能です。これは桜庭さんも同様でしょう。いろいろと気になるところはあるかもしれませんが、詳細に関わるご質問に関しては、後日改めて応じさせていただきます』
「あ……はい、わかりました」
はあ、と曖昧にうなずいて、僕は首を傾げた。対して、亘理さんは緊張しているのか軽く息をつく。それからはっきりとした口調で言葉を継いだ。
『桜庭さん、ご自身の記憶……ご自身で復元してみませんか』
「は!? 何言ってんすかアンタ! 普通エージェントがやることを、客にやらせてどうすんだよ!」
びっくりして思わず叫んだ。けど、亘理さんはまったく気にしてない。なぜか、彼は僕が記憶を自分で復元できると確信しているようだった。
『記憶の断片はパズルのピースの形でアトラクタの箱に納められています。箱の数は全部で10、全て開ければ記憶として復元できます』
「いやいやさっきの質問に答えてないからその説明じゃ!」
『桜庭さんが現在このような状況になっている原因は、現段階では我々にもわかりません。しかし私の予想が正しければ、これはおそらく機器のトラブルなどではない。もし別の機器を郵送させていただいても、結果が同じになる可能性は十分にあります』
僕はテレビの向こうにいる亘理さんをにらんで黙り込んだ。つまり、僕にこの亘理さんたちが提供している【NR-system】とかってサービスは通用しない可能性があるってことらしい。しかも、どういう状況でそうなったんだか、亘理さんたちもわかっていないのだ。
そして、普通のサービスができない上に、本体機器の電源が切れるのは90分後で、しかも現実では寝ている僕は強制的に90分間この状況が続く。このまま何もしないで90分過ごせば、それはそれで間違いなく、この機器がこの未知の状況で悪影響を及ぼすってこともないんだろうけど、その代わり記憶は戻らない。逆に亘理さんは、僕がこの夢の中で自由に動いても、僕が直接悪い影響を受けることはないだろうと思っているわけで。僕にはよくわからないけれど、90分何もしないでぼうっとしたり、あるいは別にはっきり原因がわかっているわけではない亘理さんを質問攻めにしたりしても、大して意味はなさそうだっていうのは、なんとなく理解できた。
となればやることは一つしかない……んだろう。できれば専門的なことは専門家に任せたいところだけど、その専門家が来られないんじゃ仕方ない。
「……どうすればいいか、そこからナビしてくれるんすよね」
仕方なく、僕は専門家――なんだろう、たぶん――の亘理さんが映っているテレビを見返した。内心やっぱり面白くないから、たぶんふてくされているように見えたんだろうけれど、亘理さんは待ってましたと言わんばかりににっこりとほほ笑んで大きくうなずく。
『お任せください。それでは早速始めましょう』