表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夜を渡る子供たち  作者: 方舟
>>依頼者:記憶喪失の青年
2/9

記憶の女神

桜庭仁隆様

拝啓 この度は弊社の記憶復旧サービス【NR-system】にお申込みいただきまして、誠にありがとうございます。当サービスは、失われた記憶を復旧する新たな試みとして、多くのお客様よりご注目いただいております、最新鋭の技術を用いた情報提供サービスです。当サービスを、お客様の失われた記憶を取り戻す一助としていただけましたら幸甚に存じます。

なお、当サービスをご利用いただくにあたりまして、弊社は十分な安全性を考慮の上、開発及びお客様へのご提供をさせていただいておりますが、万が一の場合に備え、お客様にはくれぐれも下記の注意事項をご精読いただき、用法を守って正しくご利用いただきますようお願い申し上げます。もしもお客様の過失により事故が発生した場合、弊社は一切の責任を負いかねます。あしからずご了承ください。

                   敬具

                   平成25年O月吉日

                   株式会社ムネモシュネ


  注意事項

 ベッドなど、全身の力を抜いてリラックスできる場所でご使用ください。

 運動直後、興奮時のご使用はお控えください。

 ご使用の際は、必ず備え付けのヘッドフォンをご利用ください。

 施術時間は90分です。途中で停止することはできません。

 施術中は誰にも集中を妨げられない場所でご使用ください。

 機器再生後、施術前に30秒間のテスト音声が流れます。

  その際、気分が悪いなどの不調を覚えられた場合は、

  直ちに使用を中止し、NR機器一式を弊社へご返送ください。




 読み終えた僕はようやく思い出した。すっかり忘れていたけれど、確かにこれは僕が申し込んだものだ。

 インターネットを開いていて、記憶復旧の文字を見た僕は、ほとんど冗談のつもりでその会社にメールを入れて申し込んだ。依頼内容は「自分の名前を思い出したい」。依頼料は決してただではなかったけれど、どうすれば自分の記憶が戻るのかわからず途方に暮れていたし、冗談とはいえやっぱりきっかけになるものを探していたのは確かだから、指定された銀行へ依頼料と機器郵送代を振り込んで……。それが三日ほど前。

 しゃがみこんでガムテープの山を拾いあげ、それから立ち上がって機器を包んだぷちぷちクッションを外し、それらをまとめて段ボール箱に押し込むと、僕は改めて、姿を現した機器を観察した。機械の表面は白く、藍色のロゴマークで【NR-system】と書かれていて、一見するとMP3プレーヤーみたいになっている。そして、同じく白いヘッドフォンにも、同じ藍色のロゴで【NR-system】と書かれていた。ふと、インターネットで読んだ内容を思い出す。曰く、何とか効果を取り入れた音楽を聴いて90分間の施術が終わると、失った記憶が鮮明に戻ってきている。半信半疑だが、それが本当なら今から90分後、僕の記憶のうちいくつかは元に戻っているはずだ。……ということになるだろう。

 僕は、NR機器と注意書きを見比べてみる。

「……90分か。それなら……」

 今からだってできそうだ。

 僕はテーブルに置いた箱はそのままに、NR機器を両腕に抱えていそいそとベッドへ向かった。歩きながらもう一度本体を確認すると、あるのは電源ボタンが一つ、それだけだ。音楽を聴くというのに、音量調節の機能もないらしい。ヘッドフォンも特に凝ったデザインというわけでもない、ただ社名と商品ロゴの入っただけの、シンプルなそれ。本当にこれで記憶が戻るのだろうか。半信半疑どころか、何かわかればめっけもん、くらいの心境で、とりあえず依頼してみたのだけれど。僕はベッドにたどり着くと、枕もとに本体機器を置いた。ふと思い当ってカーテンを見る。午前中とはいえすでに日が高く上がっている空は、仰向けになって目を閉じるには少し眩しい。やはりこれを聞いている最中は、暗い方がいいのだろうか。面倒くさいけれど。

 しばらく考えて、僕は一度開けたカーテンを全て閉めにかかる。遮光性の高いカーテンは、晴れた日の陽光をいっぱいに取り込んでいた部屋を、一瞬で薄暗がりに変えてしまった。こんなものか。

 カーテンを閉めていよいよ臨戦態勢に入った僕は、もう一度ベッドへ向かい寝転がった。仰向けになってなるべく自分の楽な体の置き方を模索した後、本体と一緒に置いておいたヘッドフォンを耳に着け、電源を入れる。ウィーン、という読み込み音が枕もとで鳴ってしばらくすると、男の人の声がヘッドフォンから聞こえてきた。


『この度は弊社の情報提供サービス、【NR-system】をご利用いただき、誠にありがとうございます。ご利用の前に注意事項をよくお読みになり、90分間、施術を妨げるものが何もない場所でご利用ください。

 ……それではこれより、30秒間のテスト音声を再生いたします。目を閉じ、リラックスしてお聞きください』


 いわれるままに目を閉じて深呼吸したけれど、ほとんど何も聞こえてこない。首をかしげて耳をすませていると、かすかに虫の羽音のような、小さな音が聞こえているのが分かった。……これがテスト音声? 何かの間違いだったりするのか?

 でも、いろいろと回る思考を持て余して首をかしげているうちにその羽音は静かになり、入れ替わりにさっきのナレーションが聞こえてくる。どうやら今のがテスト音声で間違いないらしい。


『これにて、テスト音声は終了となります。今の音声をお聞きになって、目が回る、吐き気がするなどの不快感を感じられたお客様は、直ちに使用を停止してください。

 ……それではこれより、施術を開始いたします。これより90分間は、本体の電源を切ることはできません。予めご了承ください』


 ナレーションが終わって次に聞こえてきたのは、静かな調子の音楽だ。癒し系とでもいうのか、穏やかなピアノがさらさらとクラシックを奏でている。目を閉じて音の羅列を聞いていると、不思議といろいろなことが思い出せそうな気がした。まあいいか、と疑い深い僕も少し安心する。記憶が戻らないという不安はぬぐえないけれど、気分は少しでも上を向いていた方がいい。そういう意味では、この選曲は決して悪いものではない気がした。まさに癒し系の音楽だし。

 僕は何も考えずぼうっとしながら、ヘッドフォンから聞こえてくるピアノの音に耳を澄ませた。なんだか不思議な感じだ。頭の中はどんどんクリアになっていくのに、それに反比例して意識がどこかへ飛んで行ってしまいそうな……。

そんなことを考えているうちに、僕の意識はとてつもない眠気によって塗りつぶされてしまった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ