戻らない平和
次の日も、その次の日も。
掃除当番を一人でやる俺は、帰宅部であるはずなのに、十七時ぐらいに学校を出るという、難儀な生活が続いた。
そして、毎度のように俺の掃除が終わるのを待ち、嬉しそうに絡んでくる真田がいるのも定例行事になっていた。
「なんで、アニメばっかり見ているのよ? もっと有意義な趣味を持ったほうがいいわ。ねぇ、ちゃんと聞いているの?」
とか、
「少しは、ファッション誌でも読んだらどうなの? マンガ雑誌ばかり買わないでさ」
とかな。
俺の反応は薄いのに、飽きもせずにクドクド文句を言っている。
こいつは、一体何がしたいんだ?
箱娘のお姫様にとって、オタクとはそんなに珍しい生き物だったのだろうか?
それから、数日が過ぎた。
俺も、この理不尽な仕打ちにも慣れてきた。本当は、何度か挫けそうになった事もあるかもな。
もちろん、その日の放課後も、いつものように真田が絡んでくる。
お姫様は見たことも無い相手との政略結婚に不安だったのだけど、王子様は超絶イケメンでした、なんて嬉しそうな顔は、それは実に幸せそうだった……。
この、サディストめ。
「ちょっと、私が話しかけてるのに。話の途中なのに、何で帰っちゃうのよ」
「俺はマゾじゃないよ。クドクドとオタクを攻められると傷つくんだよ」
俺はハリネズミに言われたので、言葉使いには気をつけるようにしていた。
「だから、違うの……」
そして、先ほどまで嬉しそうだった真田は、何故か一瞬だけ、悲しそうな顔をする。嫌なら、イジメなんて止めればいいのに。簡単な事なんだぜ。
それとも、思春期は複雑ってか? 知らないよ。俺だって、その思春期の最中だ。甘えるなら俺以外の奴にしてくれ。美女らしい、お前に甘えられたい奴はいくらでもいるだろうさ。
もちろん、俺の思惑なんて無視して、やっぱり嬉しそうに聞いてきた。
結婚相手のイケメン王子様は、顔が良いだけではなく世界を征服できる程の手腕の持ち主でした、みたいな歓喜の表情で、天の川でも宿しているかのように目を輝かせながら聞いてきやがる。
「そうだ。私の言っている事を復唱してみてよ。良い? いくわよ。『あなたは、キモオタです』ほら、言ってみて!」
インターネットで見かける、文章だけでもはらわたが煮えくり返るようなイジメ談とは異質だけど、真田は天性のサディストだ。
そう、こいつは、ソフトに人の心をえぐる天才だ。きっと人に話しても、大した事として受け止められないやり方で、見事に俺の心を切り裂いていくんだ。
事実、ハリネズミの奴も俺の心配なんか微塵もせずに、『オタクの定義論』なんて講義を始めやがったしな。
でも、オタクって言うのは弱い生き物なのさ……。
俺はもう限界だった。
「俺はキモオタです。これで良いか? なぁ、頼むから勘弁してくれないかな。俺が悪かったよ。全面的に非を認める。もう、許してくれよ」
「やっぱり……。やっぱり私の言葉がわかるんだ」
そう言うと真田は、さっきまでの光悦の表情は消え、床に座り込み静かにすすり泣いてしまう。
男って言う生き物は、実に哀れな生き物だ。
女が流す涙の前では、実に無力だった。
なぜか、俺が悪い事をした気分にすらなる。
「ゴメン。悪かったよ」
何が悪いのかわからないけど、とりあえず謝ってしまった。
「私こそ、ゴメンね」
真田は涙をぬぐいながら、俺を上目遣いで見てきた。こいつらしくない、女の子らしい微笑みだった。
なんだ?
この変化はなんなんだ?
俺が『素直萌え』なのを知っての狼藉か?
愛情が憎しみに変わるのも一瞬ならば、その逆も一瞬なのかもしれない。そうとすら思ってしまった。
そして、自慢じゃないが、俺にとって女の子と喋ると言う経験は、『先輩』を除くとそんなに多い事ではないのだ。無いと言ってもいい。
「私って、そんなに可愛く無いでしょ? でも、みんなが凄い美人だと言ってくれるわ。これが私の『力』なの。そしてね、私の言葉だってそう。何を言っても、可愛く素直な言葉に聞こえてしまうの。私は超能力者なの」
突然の告白は、意味がわからなかった。
とりあえず言えるのは、そんな話を一瞬で信じられるか! って事だ。
だけど、真田の周りに奇妙な現象が生じているのも事実で、その現象を説明するのに、これ程ピッタリと来る説明も無い気がした。
「いや、悪い。ちょっと、直ぐには信じられないかもしれない」
だけど、真田は勢い良く立ち上がり。
「いいわよ! だって、私には、ちゃんと言葉が通じている事が理解できたもの。それで充分だわ! これまで通りでいいの!」
頬には乾ききっていない涙の通り道が見えるのだけど、『お姫様と王子様は幸せに暮らしまたとさ』の挿絵みたいな、満足そうな顔で無茶を言い出した。
ちょっと待ってくれ。
俺は、今の現状がとても辛いんだ。
『これまで通り』は嫌なんだ。
勘弁してくれよ。
「俺は、ひっそりと目立たずに静かな学園生活を送りたいんだ」
なんとか、真田を傷付けず断る事ができただろうか?
「駄目。駄目なの! 私とあなたは友達になるのよ。良いわね!」
俺の胸倉をつかみ、身体を揺すりながら命令してくる。
それはもう、嬉しそうにな。
それにしても、俺をあなたと呼んでくれた。キモオタから比べると、随分マシな呼び方では無いだろうか?
俺は胸倉にあった手を振りほどき、
「あのさ、わかったよ。全部は信じられないけど、誰かと友達になるのは良い事だ。それは良い。友達ならさ、クラスの仕事を俺一人に押し付けるのは止めてくれないかな?」
とお姫様に上申するのだが、
「それも駄目! どうせ、やる事無いんでしょ? そうだ。二人でやりましょうよ! それなら、随分と楽なはずよ」
きっぱりと断られてしまう。
真田は手を大きく振り回し、何を示しているのかわからないジェスチャー交じりで答えた。
俺は諦めずにお願いするのだが、
「真田さん……。そうだね、一と二じゃ随分違うよね。なんせ掃除人数が倍になれば、掃除時間は二分の一だ。半分だもの。だけど、クラスの三十五人で分けると、もっともっと負担は軽くなるんだよ?」
「駄目よ!」
真田は手で大きく真一文字に空を切り、答えた。
「それじゃ、二人きりで話す時間が出来ないじゃない。今だって、一人で学校に残るのに凄く頑張っているんだから!」
と腕を組み、自分を褒め称えるようにうなずいていた。
なるほど。
こいつは、俺の掃除が終わるまでの間、取り巻きからの逃避活動をしているわけだ。
ん? 結局、それならば、俺は一人で掃除を行い、こいつが逃げ切るのを待てと言う事か?
「それじゃ、今日は帰るわ! 明日からよろしくね!」
俺の心配をよそに、お姫様は満足そうに帰って行きましたとさ……。
だけど、その点については心配なかった。
次の日、朝のホームルームの時間、真田はみんなの前で発表したのだ。
「え~っと、私とあいつでクラスの仕事を引き受ける事にしたわ。二人きりになりたいので、邪魔しないで下さい」
だってさ。
このおかげで、俺の一人でクラスの雑用全てをやらなくてはいけない生活は終わった。
その代わり、俺はクラス中の男からの嫉妬の視線に怯える毎日が待っていた。いや、学校中と言っても良い。
俺には、真田が美人には見えないのに、あまりに不条理な待遇だ。
こうして、静かで目立たない俺の平和な学園生活は、終わってしまった。