4話【初めて知る恐怖】
「……来てよかった!」
ディネスは満足そうに両手を下ろした。頬にはまだ笑みが浮かんでいる。
改めて周囲を見渡すと、背の高い木々の間から柔らかな日差しが差し込んでいた。風が吹くたびに枝葉が揺れ、地面に落ちた光の模様がゆっくりと形を変えていく。
管理画面を通して何度も眺めてきた景色。それなのに、こうして自分の目で見ると、何もかもが新鮮に感じられた。
『待て、ディネス! 今すぐ――』
そんな景色に見とれていたディネスだったが、ふと、地上へ降りる直前の出来事を思い出した。
(……そういえば、先輩に見つかっちゃったんだよね)
楽しかった気分が、少しずつしぼんでいく。
脳裏に浮かんだのは、帰還した自分を待ち構えるセリオスの姿だった。
『お前は何度言えば分かるんだ!』
頭の中で怒鳴り声が響き、いくつもの青い眼が一斉にこちらを睨みつけてくる。
「うぅ……」
想像しただけで、思わず肩が縮こまった。
(もっと慎重になるんだったなぁ……)
こっそり降りられていれば、先輩に何を言われるかと気を揉む必要もなかっただろう。少なくとも、しばらくの間は余計な心配をせず、憧れていた地上での生活を楽しめたはずだ。
もっとも、見つからなかったとしても、いずれは知られてしまうだろう。
そう考えると、余計に気が重くなる。
しばらく俯いていたディネスだったが、やがて小さく首を振った。
「……だ、大丈夫! ちゃんと謝れば、きっと許してくれるよね!」
自分に言い聞かせるようにそう口にすると、両手で軽く頬を叩いて気持ちを切り替えた。
帰った後のことを今から心配していても仕方がない。せっかく憧れの地上に降り立ったのだ。いつかは戻らなければならないとしても、それまでは思いきり楽しもう。
「さてと……まずは何をしようかな?」
改めて周囲を見渡してみる。
木々の間には細い獣道のようなものが続いており、足元には草や木の根があちこちに顔を出していた。
この森については、管理者としてある程度把握している。今いる場所から麓までは少し距離があるものの、歩いて行けないほどではない。
(うーん……とりあえず、麓の方に向かってみようかな)
せっかくなら、道中の景色もゆっくり楽しみたい。そう考えると、自然と足取りまで軽くなる気がした。
「よーし、出発!」
元気よく声を上げ、ディネスは麓へ向かって歩き出した。
◇ ◇ ◇
木々の間を縫うように歩いていると、足元の草が柔らかく沈み、踏みしめるたびにかすかな音を立てた。頭上からは鳥のさえずりが聞こえ、枝葉の隙間から差し込む陽光が、地面にまだらな模様を描いている。
ふと、木の根元に咲く小さな花が目に留まった。ディネスはその場にしゃがみ込み、顔を近づけてみる。薄い花びらが風に揺れ、かすかに甘い香りが鼻をくすぐった。
「この花、確かリュミナ草だったかな?」
記憶をたどりながら、もう一度花を眺める。
名前も特徴も知っているはずなのに、実際に触れてみると、知識だけでは分からなかった発見がある。
(名前は知ってたけど、こんなにいい匂いがするんだ……!)
ひとしきり花を眺めて満足したディネスは、ゆっくりと立ち上がり、再び歩き始めた。
道中、見慣れない植物に目を向けたり、木々の隙間から覗く空を見上げたりしながら、のんびりと森の中を進んでいく。時折立ち止まっては周囲の景色を眺め、初めての散策を存分に楽しんでいた。
そんな折、ふいに頭上から小さな物音が聞こえてきた。
――カサカサッ。
枝葉が揺れる音に誘われて顔を上げると、少し離れた木の枝に、小さなリスがちょこんと座っていた。
「あっ、リスだ!」
思わず声を上げると、ディネスは目を輝かせた。
リスはふさふさとした尻尾を揺らしながら、小さな前足で抱えた木の実を夢中になってかじっている。
(わぁ……かわいい!)
ディネスはリスを驚かせないよう、足音を忍ばせながら少しずつ近づいていった。
「ねえ、こっち向いてよ」
小さな声で呼びかけてみたものの、リスは木の実をかじるのに夢中で、こちらを気にする様子もない。
(うーん……聞こえてないのかな?)
ディネスは首をかしげると、もう一度リスに目を向けた。
小さな前足で器用に木の実を抱える姿がなんとも愛らしく、見ているだけで自然と頬が緩んでしまう。
そんな中、ふいにリスの耳がぴくりと動いた。
「あっ、やっと気づいてくれた?」
ディネスは期待を込めて声をかけた。しかし、リスはこちらを向くどころか、木の実をかじるのをやめ、じっと別の方向を見つめている。
先ほどまで忙しなく動いていた尻尾はぴたりと止まり、耳を立てたまま微動だにしない。小さな体はかすかに震え、前足に抱えていた木の実がぽろりと枝から落ちていった。
(あれ? どうしたんだろう?)
不思議に思ったディネスが、その視線の先を確かめようとしたとき――。
――バギィッ!!
突如、茂みを突き破るような激しい音が響き、巨大な影が飛び出した。
その影は地面を蹴ると、凄まじい勢いで木の枝へと飛びかかった。
身をすくませていたリスは逃げる間もなく、鋭い牙に捕らえられてしまう。
「……え?」
あまりにも突然の出来事に、ディネスはその場に立ち尽くした。
つい先ほどまで愛らしい姿を見せていたリスが、今は見知らぬ獣の口にくわえられている。
次の瞬間、リスの小さな体が地面に落とされ、鋭い牙が容赦なく突き立てられた。
――グシャッ。
鈍い音が響き、ディネスの肩がびくりと跳ねた。
獣の口元からは赤い血が滴り、先ほどまで元気に動いていたリスは、もうぴくりとも動かない。
ディネスは思わず口元を押さえた。
目の前で起きた出来事を理解しようとしても、頭がうまく働かない。ただ、あの小さな命が一瞬にして奪われたことだけは、嫌でも分かってしまった。
(あの背中の青い結晶……まさか、晶狼ヴァルグ!?)
その姿を目にした瞬間、管理者として世界を見守っていた頃の記憶が蘇る。
晶狼ヴァルグ。森の奥地に生息する凶暴な魔物で、背中に生えた青い結晶を飛ばして獲物を攻撃する習性を持つ。
普段は三、四匹の群れで行動し、並の冒険者では討伐に苦戦するほどの危険な存在だ。
不意に、獣の動きがぴたりと止まった。
血に濡れた口元をゆっくりと持ち上げ、青白く光る瞳でディネスをじっと見据える。
(ま、まずい……!)
その鋭い眼差しに、ディネスは思わず息を呑んだ。
心臓が激しく脈打ち、逃げなければと思っているのに、足が動かない。
先ほどまでリスに向けられていた牙が、今度は自分に向けられるかもしれない。そう考えた途端、背筋がぞくりと冷たくなった。
ヴァルグは低く唸り声を上げると、前脚を曲げ、鋭い爪を地面に食い込ませた。
「ひっ……!」
今にも飛びかかってきそうなその姿に、ディネスは弾かれたように背を向け、無我夢中で駆け出した。
木々の間を必死に走り抜ける。
枝が頬をかすめ、足元の草に何度もつまずきそうになるが、構っている余裕などなかった。
背後から、地面を蹴る重い足音が聞こえてくる。しかも、その音はみるみる近づいていた。
――ザシュッ!!
背後から鋭い爪が振り下ろされ、ディネスの背中を容赦なく切り裂いた。
「ぐあっ……!?」
突然の衝撃に体勢を崩し、ディネスは前のめりに地面へ倒れ込んだ。
直後、背中に焼けつくような激痛が走る。
「いっ……あああああっ!!」
あまりの痛みに、ディネスは地面にうずくまった。息をするだけでも背中に痛みが響き、体を動かすことすらままならない。
やがて、背中を伝って何かが流れ落ちる感覚に気づいた。震える手を伸ばして触れてみると、指先に生温かいものが付着する。
恐る恐る手を引き戻すと、そこには真っ赤な血がべっとりと付いていた。
(ち、血……? 私の……?)
指先についた赤い液体を見つめていると、目尻からぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
生まれて初めて味わう痛みに、どうすればいいのかも分からず、ただ小さな体を震わせることしかできなかった。
「いたい……痛いよぉ……!」
ディネスはしゃくり上げながら、必死に痛みをこらえようとした。しかし、少し身じろぎするだけで傷口が疼き、思うように体を動かせない。
そんな彼女の耳に、低い唸り声が届いた。
顔を上げると、ヴァルグがゆっくりとこちらへ歩み寄ってきている。
(どうしよう……このままじゃ、私も……!)
先ほど目の前でリスがヴァルグの牙にかけられた光景が、鮮明に脳裏に蘇る。
逃げようにも、背中の痛みでまともに立ち上がれない。迫りくるヴァルグを前に、ディネスは必死に助かる方法を考えた。
ヴァルグは獲物が逃げられないと悟ったのか、満足げに喉を鳴らしながら距離を詰めてくる。
逃げなければと思うほど、焦りばかりが募っていく。
(何か……何かないの!? お願い、何か思いついて……!)
どうにか助かる方法はないか。必死に考えを巡らせるうちに、ディネスは自分が使徒であることを思い出した。
(あっ……そうだ! デリートがあるじゃない!)
その考えが浮かんだ途端、ディネスの胸に希望が芽生えた。
デリート。それは、管理対象を世界から消し去ることのできる権能の一つだ。
普段なら何気なく使っている力だが、今のディネスにとっては、まさに救いの手だった。
(よ、よかった……これで助かる……!)
ディネスは痛みに耐えながら、震える手をヴァルグに向けた。
頬にはまだ涙が伝っていたが、先ほどまでの恐怖は少しずつ薄れていく。
ヴァルグはそんなディネスの様子など気にも留めず、低く唸りながらさらに距離を詰めてきた。
しかし、ディネスにもう迷いはなかった。これで助かると信じ、声を張り上げた。
「デリート!」
ディネスの声が森に響き渡った。
…………。
ところが、いくら待っても何も起こらない。
「…………あれ?」
消えるはずのヴァルグは、相変わらず目の前に立っていた。
それどころか、こちらをじっと見つめたまま、不思議そうに首を傾げている。
(えっ……? なんで……?)
ディネスは自分の手とヴァルグを交互に見つめた。何度見直しても、そこには先ほどと何一つ変わらない光景が広がっていた。
「な、なんで……? どうして消えないの……!?」
ディネスは戸惑いながらも、もう一度ヴァルグに手をかざした。
「デ、デリート!」
…………。
しかし、結果は同じだった。
目の前のヴァルグには何の変化もなく、権能が発動した様子すらない。
(うそ……そんな……! いつもなら、これで消えるはずなのに……!)
先ほどまでの安心感は跡形もなく消え去り、ディネスの顔から血の気が引いていく。
そんな彼女をよそに、ヴァルグは傾げていた首を戻すと、低く唸りながら一歩踏み出した。
青白い瞳がディネスを捉え、その口元から鋭い牙が覗く。
ヴァルグは身を低くすると、後ろ脚にぐっと力を込めた。
(ま、まずい……! 逃げなきゃ……!)
次の瞬間、ヴァルグが勢いよく地面を蹴った。
「ひゃあああっ!!」
ディネスは悲鳴を上げながら、必死に体を横へ転がした。背中に激痛が走り、思わず顔を歪める。
そのすぐ脇をヴァルグの巨体が通り過ぎ、鋭い爪が地面を深くえぐった。
ディネスは地面に手をつき、必死に体を起こした。
「うぅっ……いたい……!」
背中の傷が疼き、何度も膝が折れそうになる。
それでも歯を食いしばり、どうにか立ち上がった。
(逃げなきゃ……! 早く、早く……!)
ヴァルグが向きを変えるよりも先に、ディネスは再び駆け出した。
涙で滲む視界の中、木々の間を縫うように走り抜ける。
足元は次第に下り坂へと変わっていたが、ディネスは速度を緩めることなく、ただひたすらに走り続けた。
背後から木の枝が折れる音が響き、ヴァルグが追ってきていることを嫌でも思い知らされる。振り返る勇気など、ディネスにはなかった。
(お願い……! 誰か、助けて……!)
坂を下るにつれて傾斜はますます急になり、足元の土も崩れやすくなっていく。
「わっ……!?」
不意に、地面から突き出た木の根に足を取られた。
勢いのついた体は大きく前へ傾き、踏みとどまろうとしても足が追いつかない。
ディネスはとっさに手を伸ばしたが、何かをつかむ間もなく、斜面を転がり落ちていった。
「きゃああああっ!!」
急斜面に体を翻弄され、ディネスは自分がどちらを向いているのかさえ分からなくなった。
何度も地面に叩きつけられ、そのたびに小石や木の枝が肌を傷つける。必死に手足を伸ばしても止まることはできず、やがて大きな衝撃とともに、斜面の下へ投げ出された。
「うっ……あ……」
ディネスは地面に横たわったまま、かすれた声を漏らした。
全身が痛み、もはや体を起こす力も残っていない。
服はあちこちが破れ、露わになった肌には無数の擦り傷ができていた。その傷口からは血が滲み、地面に横たわるディネスの体を少しずつ赤く染めていく。
そんな自分の姿を確かめる余裕もなく、ディネスはただ浅い呼吸を繰り返していた。目の前の景色はぼんやりと霞み、先ほどまで聞こえていた森の音も、どこか遠くに感じられた。
――ガサッ、ガサッ……。
草むらをかき分ける音が、少しずつ近づいてきた。
ディネスは閉じかけていた目をわずかに開いた。ぼやけた視界の向こうで、黒い影がゆっくりと動いている。
背中に並ぶ青い結晶を見て、それがヴァルグだと気づいた。
(あ……まだ、追ってきてる……)
逃げようにも、体はもう言うことを聞かない。声を出す力さえ残っておらず、ディネスはただ目の前のヴァルグを見つめることしかできなかった。
ヴァルグは急ぐ様子もなく、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
その姿を見ているうちに、ディネスはもう逃げられないのだと悟った。
(私……こんなに早く、死んじゃうの……?)
目尻から一筋の涙がこぼれ、頬を伝って地面に落ちた。
ヴァルグはディネスのすぐそばで足を止めた。その巨体が覆いかぶさるように迫り、青白い瞳が彼女を見下ろす。
低く唸りながら大きな口を開き、鋭い牙を覗かせる。ディネスは恐怖に耐えきれず、ぎゅっと目を閉じた。
――ヒュッ!
不意に、空気を切り裂く音がした。
直後、鈍い音とともにヴァルグの唸り声が途切れた。
ディネスが恐る恐る目を開けると、ヴァルグの眉間には一本の矢が深々と突き刺さっている。
その巨体がぐらりと揺れ、やがて地面へと崩れ落ちた。
(……え?)
ディネスは目の前で動かなくなったヴァルグを、呆然と見つめていた。何が起きたのかは分からない。それでも、もう襲われることはないのだと思うと、胸の奥にわずかな安堵が広がっていく。
やがて、重くなったまぶたがゆっくりと下がり始める。必死に意識を保とうとしても、ぼやけた視界は次第に暗くなっていった。
そのとき、遠くから誰かの声が聞こえた。
「おい! 大丈夫か!」
続いて、草を踏み分けながら駆け寄ってくる足音がする。
ディネスは声のする方へ目を向けようとしたが、もう顔を動かす力さえ残っていなかった。
やがて足音がすぐそばで止まり、誰かが何かを話しかけてくる。けれど、その言葉はもう耳に届かない。
そして、ディネスの意識はそこで途切れた。




