伝説になった相場師
昭和55年5月。金曜日の昼下がり。
丸徳証券の営業マン田所武は、東京日本橋兜町の鰻屋松よしで特上うな重を食べ終え、一緒に頼んだビールを満足そうに飲み干した。
去年の暮から仕掛けた宮藤鉄工株の仕手戦が、間もなく決着する。
うまくいけば50億円以上の利益が手に入る。
クライアントに40億円を分配しても手元に10億円は残る。
悪くない!
田所は、昭和30年に高校を卒業するとすぐに丸徳証券に就職した。
最初は場立ち(証券取引所の売買担当者)になったが、3年もしないうちに営業に回された。
だが、名も無い証券会社を名乗ってもドアを開けてくれる家などなかった。
そんなある日、いつものように新宿歌舞伎町の酒場で酒を飲んでいるとき、後ろから名前を呼ばれたような気がした。
「武、タケシだろ」
振り返ってみると、そこに立っていたのは、中学時代の同級生矢沢浩だった。
高校は別だったが、風の便りに手が付けられない不良になったと聞いていた。
「浩じゃないか、久しぶりだな」
二人は中学時代の話でひとしきり盛り上がった。
やがて話が一段落したとき矢沢が、
「ところで、お前、今どんな仕事してんだ?」と聞かれた。
田所は返答に窮した。
名も無い証券会社の営業とは言いたくなかった。
「実はな、名前はいえないんだけどある大物国会議員の金を預かって運用してるんだ。だいたい2年で倍にしてやったよ」
情けない自分をさらしたくなかった。
旧友に馬鹿にされたくなかった。
理由は色々あったが、こいつとは今日限りだろうとの思いから、虚栄に満ちた嘘をついてしまった。
「へえー、すげえな! じゃあ今度社長に紹介してやるよ。社長は金儲け好きだから。俺な、スマイルキャッシュっていう会社で働いてんだ。小さな金貸しだけどな」
と言って、名刺を差し出した。
「本当か、よろしく頼むよ」
と田所は、無邪気に喜んだ。
数日後、田所は口座開設書と一任勘定契約書(特定の組織か人に資産の運用を任せる契約書)を持って、矢沢のいるスマイルキャッシュへ向かった。
スマイルキャッシュは、歌舞伎町の繁華街から少し外れた雑居ビルの3階にあった。
昼だというのにビルの中は薄暗く不気味だった。
重いガラス戸を開け中に入ると数人の男たちが雑然と座っていた。
矢沢に社長を紹介されソファーに座った。
「ヒロシから話は聞いている。あんた相場がうまいらしいな。2000万の小切手を用意した。2年で倍とまで要求せんが、1年で3割ぐらい約束してくれるか?」
田所の顔は青ざめた。
約束! 約束って? 利益保証しろってことか? 動悸が、尋常ならない速さで脈打ち、返事が出来ない田所に、社長は怒鳴るように、
「いいな!」
と念を押され、田所は反射的に、
「わ、分かりました」
と言ってしまった。
何とかなるだろう、そう思うしかなかった。
田所は恐る恐る口座開設書と一任勘定契約書を差し出し、書くように促した。
社長は、
「ヒロシ、代わりに書いとけ。あと、誓約書も忘れんなよ」
矢沢は、二枚の書類を受け取り、一枚の書類を田所に手渡した。
『誓約書、昭和34年9月末日までに金2600万円以上返済すること……』
何のことはない、年利3割で金を借りたのと同じじゃないか。それに気づいた田所は、
「これは書けません」
と言ってはみたものの、男たちの鋭い視線を目の当たりにして、
「いえ、何でもありません」
と答えるしかなかった。
青ガエルのように真っ青な顔で帰社した田所は、一部始終を部長に報告した。
部長の顔はみるみる赤くなり、
「バカヤロー、スマイルキャッシュは広域暴力団、竜神会系のフロント企業だぞ、今すぐ返してこい」
そうだと知ればなおさら返せない。
田所は部長の袖をつかみ、
「何とかなりませんか?」
と涙ながらに訴えた。
「とにかく、会社の名前だけは絶対に契約書に入れるな。お前の個人名で一任勘定契約書を作るんだ。そして、お前の名義で口座開設しろ。つまりお前がスマイルキャッシュの代理人で運用するんだ。何かしらの問題があっても、うちは関わらないからな!」
翌日、矢沢に頼んで一任勘定契約書を差し替えた。
そして、その日から寝る間も惜しんで相場の勉強をした。
高度経済成長の追い風も手伝って、3ヵ月で倍になる幸運に恵まれた。
そのことが幸か不幸か裏社会で評判になり、金を預けるクライアントが続出した。
田所は今回限りで裏社会から縁を切るつもりでいたから、最初は断った。
しかし、相次ぐ脅しや恫喝に耐え切れず仕方なくすべてを受け入れた。
また、当然のことだが利益保証だけは絶対に断った。
それから20年近くたった昭和54年。
クライアントから預かった資産は50億円近かった。
田所も丸徳証券の営業部長になり、会社全体のコミッション(株式売買手数料)収益の8割を一人で稼いでいた。
そして、4月に丸徳証券始まって以来の珍事があった。
大卒の新人田辺誠が入社してきたのである。
なんでも田所にあこがれての志望動機らしいが、丸徳証券に中途採用の歩合セールスで4大卒はいたが、新卒は初めてだった。
本人の希望もあって営業部へ配属になった。
田所は半年ほど前、とある週刊誌に掲載されたことがあった。
そのタイトルが『昭和の相場師』だった。
三友鉱山を手掛けた蛭川金蔵らと共にインタビュー記事を掲載されたが、田所にとっては迷惑な話だった。
自分はただのセールスマンであり、自分の金で相場を張っているわけではない。
スマイルキャッシュの一件以来、裏社会からの運用依頼が相次いだのは決して幸せなことではなかったのだ。
絶対損はさせられない。
損失を出すことが、即ち生命の危機に瀕する、そんな張りつめた日常から抜け出したかったおりの週刊誌の依頼だった。
これ以上顧客を増やしたくない田所は依頼を断った。
しかし、丸徳証券の社長が会社の宣伝になるからと勝手に引き受けてしまった。
田辺誠はその記事を読んだのである。
田辺は形ばかりの入社式の後、田所に紹介された。
「田所さん、初めまして田辺です。週刊エメラルド読みました。僕も田所さんみたいな相場師になるのが夢なんです」
田所は少し苦笑いしながら、
「田辺君、入社おめでとう。だが、君の夢を壊すようで申し訳ないが、ここはエメラルドに書いたようなお花畑とは全然違うところだ。君は明日からコミッションという刃を背中に突き付けられて走り回らなければならないんだ。その覚悟はあるかね?」
田辺は驚きもせず平然と、
「当然覚悟してきました」
「それならよろしい。あともう一つ、決して俺みたいになるな」
田辺は、田所の一言に驚いた。
「ど、どういうことですか?」
田所は田辺をみつめ、
「俺はな、20年前幼なじみの勤める暴力団のフロント企業に飛び込み営業しちまったんだ。もちろんフロント企業だなんて思ってもみなかったけどな。そこで2000万円預けられて、これを3割増しにしろって言いやがった。怖かったよ! 足がすくんだよ! でもな、断ったらどうなるかぐらい馬鹿な俺でも見当がついた。仕方なく引き受けて、寝る間も惜しんで相場の勉強をしたんだ。そしたら運よく儲かったわけさ、本当はその金返したら、裏社会との取引から足を洗うつもりだった。だが、そんな簡単な話じゃなかったんだよ。それ以来ろくすっぽ寝られねぇ生活が続いてんだ。分かったろ、だったらまだ遅くねえからこんな仕事辞めな」
田辺はうつむきながら、じっと田所の話を聞いていた。
そして、しばらく沈黙した後、
「分かりました! でも辞めません。逆にますます田所さんを尊敬しました。あのエメラルドに書かれたような華やかな相場師人生の陰にそんな裏話があったんですね。気を付けて裏社会と取引しないようにして田所さんのようになります」
「バカヤロー、勝手にしろ」
田所は内心たまらなく嬉しかった。
20数年この仕事をしてきてこんなに嬉しいことはなかった。
田辺は優秀だった。
5月に行われた証券外務員資格試験を満点合格すると次々に株の注文を取ってきた。
それから月日が経った7月の中頃、田辺は田所に相談を持ち掛けた。
「田所部長、私の大学時代の友人に鈴木達夫ってのがいて、そいつの父親がこの春大手企業を定年退職したらしいんですよ。退職金が2500万も出て、運用相談されたんすけど、老後資金ですからロクイチ国債なんかどうですかね?」
「その鈴木達夫君は誠の親友か?」
田所は入社式以来田辺を親しみを込めて下の名前で呼んでいた。
「いえ、ゼミが一緒だっただけです。それから大手の野山証券に入った奴にも相談しているみたいでした」
「分かった。お前の言っていることは正しい。だけどな、国債買わしちまったら丸徳にほとんど金は入らねえ。鈴木君がお前の親友ならそれでいいが、ここは鈴木君のおとっつぁんをその気にさせて信用取引に誘い込みてえな」
「分かりました。その方向で外交してみます。ですが、信用取引の仕組みは知ってますけど、誘導できるか自信がありません」
「心配するな、俺が同伴してやる」
数日後、田所と田辺は鈴木達夫の自宅へ向かった。
二人は応接間に通され、達夫が田辺を父親の賢一に紹介した。
「初めまして、達夫さんの友人で丸徳証券の営業をしてます田辺誠といいます。こちらは上司の田所武です。よろしくお願いします」
二人は名刺を賢一へ差し出した。
「達夫から聞いてるよ、田辺君は大学時代ゼミで一番優秀だったんだってな?」
四人は30分くらい雑談に興じた。
田所は頃合いと見定め、
「ところで、鈴木さんはどこの会社にお勤めだったんですか?」
田所は知っていた。
綿密に調査して外交にきたのである。
だが、知らないと思わせるのが相手を安心させるセールステクニックと信じていた。
「毛利製作所だよ。技術畑で35年務めてきた」
「精密機器メーカー最大手ですね。失礼ですが年金もだいぶ出たんじゃないですか?」
「多いかどうか分らんが、企業年金と合わせて月55万くらいかな」
「そりゃあとんでもなく多いですよ。私なんかこのままいくとせいぜい14万てとこですよ」
「そんなもんかなー」
「鈴木さん、年金だけで十分暮らしていけますよ。そしたら退職金で夢をみませんか?」
「夢?」
「そうです夢です。鈴木さんハワイはお好きですか?」
「ハワイは大好きだよ。達夫が小学生のとき家族で行ったよ」
「それは多分、1週間くらいのパック旅行ですよね。私が提案したいのは夏の2か月くらいコンドミニアムを借りてご夫婦でのリゾート生活ですよ」
「そりゃあやりたいが、退職金なぞあっという間になくなるだろう」
「その通りです。だいたい一回の滞在で300万てとこですか。だから増やすんです。これから説明する投資方法はリスクが多少ありますが、年200万から300万くらい儲かります」
「それはどういうことかね?」
「今日の毛利製作所の終値は確か600円です。だいたい同規模の同業他社、大阪精密は1000円です。おかしくないですか?」
「大阪精密は、最近出始まった早川電機のパソコンの部品を作っているからだろう」
「そうなんです。ですが、毛利製作所でも大和電気系から打診されてますよね」
「そんな情報どこから仕入れた? 確かにそんな話はあるが……」
「そこなんです。つまり、毛利製作所は割安で、大阪精密は割高ということになります」
「うちが作ればそうなるな」
「そうです。毛利が作れば必ず株価は上がります。逆に大阪精密は売られて下がります。これを業界用語で『サヤ寄せ』と言います。これを利用するんです」
鈴木賢一は身を乗り出してきた。
「具体的には鈴木さんの退職金2500万のうち1000万円を使って毛利製作所株を信用取引で買います。1000万円を委託保証金にすると、約3倍の5万株弱購入できます。3000万円借りたことになりますが、金利は年利10パーセントですからひと月持っても24万円強です。なお、買った株券は資金の出し手、日本証券金融いわゆる日証金に本担保として差し出すわけです。日証金はその総和を買残として日々発表されます。この数字が大事なんです」
「なんとなくだが理解できた。なら、察するに大阪精密を空売りするわけだな?」
「素晴らしい、その通りです。1000万円を委託保証金にして約3万株の空売りをするわけです。売りは買いと違って金利がもらえます。日証金に売った代金を担保として差し入れるため、日証金にたいして融資したことになるわけです。今は5パーセントです。ですから、ひと月で12万円入ってくるので毛利の買いと差し引きで12万円の負担軽減になります。日証金は売りの総和を売残として発表しています」
「もしかしてこうゆうことか? 毛利製作所が800円になったら5万株反対売買すると1000万円儲かる。大阪精密も600万円儲かるわけだな」
「鈴木さん、あなたは天才です。私の言いたいことを100パーセント理解されている。ですが、実際の売買はそんなに甘くはありません。毛利製作所と大阪精密の株価の開きが正当なものならサヤ寄せせず、むしろもっと開くかもしれません。だから技術畑の鈴木さんでなければ、正当な開きかサヤ寄せするか判断できないわけです」
「なるほど! 良く分かった」
「あと、大事なことなんですが、先ほど言った『買残、売残』のことです。信用取引の特性上お金を借りられる期間が最大半年と決まっているんです。ですから買残が膨らんでくるといずれ反対売買をしなければならないので、株価の押し下げ要因になります。まっ、これは注意すればいいのですが、問題は売残の方です。日証金は売りたい人に買残から株券を貸すわけですが、たまに売残が多くなるときがあるんです。そうなると日証金は大株主や銀行等から株券を調達するため日歩何銭かで株券を貸してくれる人を募る入札をするわけです。そこで決まった品貸料のことを『逆日歩』と呼ばれて売り方負担なんですよ。その逆日歩は貸してくれた大株主や銀行だけじゃなく信用で買った人全員に払わなきゃいけなくなります。だいたい5銭とか10銭で収まりますが、中には1円を超える時があります。先ほどの大阪精密の場合、日々3万円払うことになります」
「それも想定内のことだが、いちいち買残、売残なぞ見ておれんぞ」
「ご安心ください、売残買残の動向、株価の動向を逐一うちの田辺が報告します。鈴木さんは判断だけしていただければ結構です」
田辺は鈴木賢一の目を見て、
「お任せください、私が責任をもってご報告致します」
「よろしく頼むよ」
と握手しかけたとき、それまで黙っていた鈴木達夫が、
「ちょっと待って父さん。ほとんど同じ話を野山証券にいった木島から一週間前に聞いたんだ。そしたら一昨日、木島から毛利製作所に絡むものはしばらく待ってくれと言われたんだ。父さん大丈夫か?」
「田所さん、大丈夫なのか?」
田所はピンと来ていた。だが、細かいことは言わずに、
「おそらく野山さんの会社事情でしょう。うちでやる分には何ら問題ありません」
それを聞いた鈴木親子は改めて握手をし直した。
帰り道田辺は、
「野山証券は何で断ってきたんですかね?」
「増資だよ。間違いない。大和電気の部品を作るために株を発行して設備投資のための資金調達だ。主幹事は野山か、こりゃ儲かるぞ」
「でも田所部長、なんで鈴木さんが毛利を買っちゃいけないんですか?」
「鈴木さんは定年したとはいえ、まだまだ会社との関わりがあるだろ、野山証券は内部者取引いわゆるインサイダー取引と疑われるから止めたんだろう」
「それならうちも同じじゃないですか?」
「毛利が増資する確実な情報なんぞ俺ら知らねえよな」
田所は、毛利製作所が近いうちに増資をする前提でクライアントの預り金で勝負することにした。
翌日の寄付(よりつき:一日の取引で最初に付く値段)は625円。
まず、10万株購入した。その後も買い進み、2週間で200万株ほど買い付けた。
株価は1000円を超え、田所の平均買付単価も750円になったころ、増資発表が行われた。
募集価格は、1000円だった。
株価が1050円で始まった募集期間の初日、田所は200万株すべて売却した。
通常、一日の売買高が50万株程度の毛利製作所に、200万株も売り浴びせたら、大暴落するはずである。ところが、株価は1000円を維持している。
買ったのは野山証券。
これにはある制度が関係していた。
募集期間内に株価が募集価格を割るようなら、募集に応募しようとする投資家は、市場で買った方が割安なので、誰も募集に応募しなくなる。
それを防ぐために引受証券会社は、特例で株価を買い支えることができるのである。
これが安定操作と呼ばれる制度だ。
田所はこの制度を利用して5億円弱儲けた。
田所は、長い間クライアントに対してわずかな分配金しか払っていなかった。
今回久々の多額の分配金を支払うことができた。
数日後、クライアントで大口の竜神会から呼び出しの電話があった。
田所は分配金の謝礼だと思い込み、意気揚々と事務所へ向かった。
事務所のソファーに座り、出されたお茶を一口すすると、目の前に懐かしい顔が現れた。
矢沢浩である。
「タケシ! 20年ぶりだな。お前、ずいぶん羽振りよくなったな」
「浩、久しぶりだよな。お前、まさか幹部か?」
「オゥ! まあな。ところでお前に会長から言づてがあるんだ」
「この前の分配金のことなら礼はいらねよ」
「ちげぇよ! むしろその逆だ」
「どういうことだ?」
「会長は怒っていたよ。20年前はけっこうな額の分配金があったのに、ここ10年くらいほとんどねえとな。ほんでこの前、ずいぶんな額が振り込まれたから、会長も『やればできるじゃないか。なんで今までやらなかったんだ』ってなわけよ」
「馬鹿言うな。今回、偶然見つけた不確かな情報に賭けたんだ。そんなのめったにあることじゃない。それに、20年前は東京にオリンピックが誘致されることが決まって、建設株が軒並み暴騰したから、いずれセメント株に波及するとみて大野田セメントを買ったわけさ。そしたら大暴騰よ。だけどオリンピックが終わればこの相場は終わると踏んだから38年に全株売却した。そしたら40年不況だぜ、助かったよ。その後は知っての通りオイルショックの狂乱物価。どうやって儲けろってんだよ」
「俺は理解してるさ。今言ったことだってエメラルドに書かれてたことだから、お前も精一杯頑張ったと思うよ。だが、オイルショックのときもわずかながら分配金入れてたな、あれはどうしてたんだ?」
「ああ、あれか、ちょっとこすい手を使ったんだ。大手の野山証券のサインを盗んだんだ」
「何いってかわかんねぇよ。分かるように説明してくれ」
「野山は4大証券のうち一番新しい会社なんだ。だから個人営業にはめっぽう強いが、金になる法人には弱いんだ。財閥系が取れなかったからな。だから野山はめぼしい銘柄にあたりをつけて、まず法人に買わせるわけさ。だいたい株価が上がってきた時には『推奨銘柄』と銘打って大々的に個人に買わせてるんだ。当然そのとき法人は売り抜けるわけよ。まっ、そうやって法人客を囲おうとしてるんだろうな。」
「なるほどな! その推奨銘柄になる前に見つけるわけだ。どうやったんだ?」
「だから野山証券のサインを盗むだけの場立ちを取引所に設けたんだ。野山が何の銘柄をどれだけ買ってるか逐一報告させて、俺が分析するわけよ。だいたい七割くらい当たったのさ」
「そうか理解したよ。だがな、俺も会長の意見には共感できるとこがあるんだ。武は頭いいからいろんな手使って儲けてるが、それ以上にお前は運がいい、稀にみる強運の持ち主だ。だからさ、お前自身の能力に張ってみろよ。絶対勝つぞ。まっ、負けたら俺が一緒に会長に頭下げてやるよ」
「……」
田所はうなだれて帰った。帰り道、何度も何度も、
「ちきしょう! 俺に何やれってんだよ! 運がいいだ? 能力に張れだ? なにいってっかわかんねぇよ」
とつぶやきながら歩いた。
それから数か月たった昭和54年12月。
再三にわたる矢沢からの催促に抗しきれず、仕方なく長年考えていた仕手戦の勝負に出ることにした。
狙ったのは、宮藤鉄工株だ。
流通している株数は、1000万株強。業績もパッとしない。
そのため、株価もここ半年ほど、200円を行ったり来たり。
売買高も一日2万株程度が続いている。
まず手始めに一日、2万株程度信用で買いだした。
当初、急騰した株価も、400円を過ぎるころから、値ごろ感の売りと、空売りで売買高も20万株を超えた。買い付け株数を、一日10万株程度に増やし、さらに買い進めた。株価が600円を超えるころ、市場では様々なうわさが飛び交った。
「宮藤が乗っ取られるかもしれない。今が買い時だ」
あるいは、
「何の買い材料もないこの株が、こんなに高いわけがない、ここは空売りだ」
ウリカイ交錯する中、次第に売りが優勢になったが、田所は買い進んだ。
翌年の5月には、株価も1000円を超え、田所の買残も600万株を超えた。
証金発表の残高は、買残700万株に対して、売残が500万株にのぼっている。
正式発表ではないが、売方の本尊は、三友鉱山を手掛けた蛭川金蔵であるらしい。
どうも、300万株の空売りを仕掛けているといううわさだ。
田辺誠はワクワクしながらこの状況を見守っていた。
田所にあこがれて丸徳証券に入社したものの、田所は一向に仕手戦らしい仕手戦をやってくれなかった。多少不満が募ってきたところだっただけに今、目の前で展開されている本格的な仕手戦は興奮した。
「田所部長、いよいよ蛭川金蔵と一騎打ちですね、ワクワクします」
「馬鹿野郎! こっちはおっかなくてしょうがねぇよ。今は予定通りだが、一つ間違えれば俺の命はねぇんだよ」
「スンマセン! でも、次の展開が気になります」
「そろそろ仕上げだ」
その言葉通り田所は、300万株の現引き(委託保証金を引き上げ、購入時の代金を全額払って、現物株にする決済方法)をした。
そのことによって、買残400万株、売残500万株になり、100万株の株不足が発生した。
翌朝証金は、100万株の入札に入った。
最初は、1円程度だったが、日が経つごとに徐々に増え、10日も過ぎると10円の値が付いた。
つまり、300万株の空売りをしている蛭川金蔵は、一日3000万円の逆日歩を払い、逆に田所が3000万円もらうという構図だ。
売り方は、その負担に耐え切れず買い戻しに走った。
だが、流通している株式のほとんどを田所が所持しているため、売り物がほとんど無かった。そのため株価が急騰し、現引きから15日たった金曜日の前場(午前の取引)に2000円の値が付いた。
何もかも想定通り。
「2000円で全株式を売却だ」
と思ったが、その前に前祝で鰻でも食おうと考え田辺誠を誘った。
「誠、前祝だ。松よし行くぞ」
「スンマセン部長、これから鈴木賢一さんと会うんですよ。また今度」
「しょうがねぇなぁ、俺一人で行ってくっか」
松よしは空いていた。
無理もない、世の中は第二次オイルショック、景気がいいのは俺だけか。
田所は浮かれていた。
松よしに長居をし、後場が始まったことに気づかなかった。
爪楊枝をくわえ、意気揚々と会社へ戻った田所は、わが目を疑った。
「なんじゃこりゃ! 宮藤鉄工ストップ安(一日の制限値幅まで、安くなること)の1500円って、どういうことだ?」
田所は、知り合いの株式専門紙の記者に電話した。
そして、投資有価証券(通常、親会社等が保有している株式で、会社支配のための議決権が目的であるから、譲渡益目的で売却することはない。統計上、流通株数としてカウントされない)を親会社の三友重工が、東証の要請で500万株の売り注文を出したらしい。
「まずい!」
そう叫んだ田所は、慌てて売り注文を出したが、時すでに遅かった。
外交から戻った田辺は、
「部長。どうゆうことっすかこれは?」
「甘かったよ、鰻なんぞ食わずに前場に売っときゃよかった……」
「部長。これからどうなっちゃうんですか?」
「分からねぇよ。いずれ三友重工が買い戻すだろ」
だが、二人の願いもむなしく、次の日も、そしてまた次の日も、ストップ安を繰り返した。
打ちひしがれて、命の危険性と隣り合わせの田所は、ただ頭を抱えるだけだった。
そんな田所に野山証券会長の瀬山実から呼び出された。
田所は指定場所の茅場町にある証券会館に向かった。
6階にある応接室にはすでに、瀬山実と三友重工常務の田村光弘が座っていた。
田所は瀬山に促され田村の正面に座った。
「遅くなりました。丸徳証券の田所です」
「三友重工の田村です。よろしくお願いします」
瀬山は自己紹介をすることなく、田所に向かい、
「田所さん、あなた自分がやったことが分かっているのかね? 株式市場を崩壊寸前まで追い込んだんだよ。三友さんの玉(株式)がなかったら、売り方に自殺者がでたかもしれんのだよ」
「弁解は致しません。蛭川さんが三友鉱山で似たようなことをやってます。売り方は買い戻しができなくなるかもしれない覚悟で勝負に及んでいると信じてます。ですが、自分でもやりすぎだったと思います。反省してます」
「まぁ、あなたのやったことは許される行為ではありませんが、今日来ていただいたのはあなたを糾弾するためではないのだよ。三友重工さんが『解け合い』を提案されたんだ」
「えっ、解け合い? 強制決済ですか? まさか、地相場(株式の妥当な相場水準)の200円くらいですか?」
田所は驚いた。
200円で全株売却したら50億円の損失が出る。
クライアントの預り金全部を吐き出してもまだ足りない。自分で死ぬか、殺されるかの二択だ。
「いえ、そうじゃありません」
田村が口を開いた。
「うちとしても2000円で500万株売却した時点で、元々コスト10円の投資有証だったから100億円近い利益が出ました。出たというより出てしまったの方が正解かもしれない。事業収益でこれだけの利益が出れば大喜びだが、世間は納得しないだろう。この上元々のコストに近い200円で買い戻したとあってはなにを言われるかわかったもんじゃない。だから、明日のストップ安1000円でどうですか?」
横でうなずきながら聞いていた瀬山が、
「田所さんどうですか? 実際は明日の大引けで買うだけだから『解け合い』と呼べないが、あなたにとっても渡りに船なんじゃないですか? 悪いが調べさせてもらいましたよ。あなたは反社の金で相場を張ってるよね? 今回大損したら命の危険性すらあるんじゃないか? 今回1000円で決済した場合、5億円程度の損失ですむだろ。たしか、うちもあなたに手ひどい目にあった、毛利製作所の儲けも5億円だよね? 差っ引きチャラじゃないか。だからさ田所さんよ、今回を契機に反社から足洗ったらどうなんだい」
田所はうつむきながら沈黙した。
2、3分部屋の中は静まり返った。やがて田所は、意を決して、
「分かりました、お心遣い感謝いたします。これを機に反社と決別し、私自身も相場から身を引きます」
瀬山は、
「相場から身を引けとは言ってないが、反社は絶対切った方がいいよ。私も協力するから」
そして、翌日約束通り三友重工は1000円で600万株買い付け、半年に渡った宮藤鉄工の仕手戦は終わった。
その翌日、田所は竜神会会長にアポを取った。
事務所へはなぜか田辺を同伴させた。
田辺は、自分をボディーガードにするのだろうと思い込み、身を引き締めた。
会長室は窓一つない20畳くらいの洋室だった。
大きなソファーの向こうに、大きな黒檀と思われる両袖机があり、会長とおぼしき髭ずらの強面の老人が腕組みしながら座っていた。
周りを見渡すと両サイドの壁際に20人くらいの男たちが眼光鋭くこちらを見ていた。
アポを取る際、重要な話とだけ伝えてあった。
入り口付近で田辺に、
「誠、いいかよく聞け、これから何があってもここに立ってろ、これから見ること、俺が話すことを頭の中に叩きこんどけ。いいな分かったな!」
田辺は理解できなかった。
全然分からなかったが、
「分かりました」
と答えた。
その言葉を聞いた田所は、会長が座っている机の前に歩み出て、いきなり土下座をした。
「会長。申し訳ありません。1億の損金を出してしまいました」
「なんだとてめぇ! ちゃんと補填してくれるんだろな?」
会長の言葉ではないようだ。
声は右の壁際の方から聞こえてきた。
「補填は致しません。それからお預かりした10億のうち損金の1億を差っ引いた9億をお返しいたします。私はお預かりしたお金をクライアント全員にお返ししたら、相場の世界から足を洗いたいと思います」
「ふざけたことをいってんじゃねぇ」
後ろから背中を蹴られ、床にうっぷした田所に5、6人の男たちが腹や胸などを蹴り上げた。
黙ってみていた田辺は、我慢できずに駆け寄ろうとしたが、
「来るんじゃねぇ。そこに立ってろっていったじゃねぇか。いいか誠、相場師なんか目指したらいずれこうなるんだ。よく見てろ!」
「田所さーん! どうして! なんで? 田所さん何も悪くないじゃないか! もう少しで勝てたじゃないか」
「バカヤロー! てめぇの金ならいざ知らず、人様から預かった大切な金を丁半ばくちにつぎ込んでいいはずねーだろ! もっと真っ当な道を目指せ」
「田所さん、田所さん、田所さーん」
田所への暴行は5、6分続いた。
だが、突然止まった。
それは、田所の横に一人の男が土下座したためだ。
矢沢浩である。
「親父! この辺で勘弁してもらえませんか? このままだとたった一人のマブダチが死んじまいまさぁ! 俺が中学のころ、家が母子家庭で着るもんはボロばかり、おまけに風呂に入らねぇから、そりゃあ臭せぇのなんの。だからみんな近寄って来なかった。だけど、武だけは別だった。普通の友達のように一緒にマンガ読んだり、畑のスイカかっぱらって食ったり、そりゃぁ楽しかったんです。高校に入ったら、武と疎遠になっちまって逆戻りの生活になりましたが、中学と違って、こっちから近寄ったです。武みたいな奴がいると思って。でも、そんな奴一人もいませんでしたよ。みんなさげすむような目で見てたから一発殴ってやりましたよ。そしたらいうこと聞くようになりましたよ。でも、そいつらは友達じゃないすよね。20年前新宿で偶然、武に会って嬉しかった。それを高倉さん(スマイルキャッシュ社長)にいったら『型にはめる』っていわれちゃって、俺は反対したんすけど…… そしたら武は見事にやってくれましたよ。それから武に申し訳なくて距離を置いたんすけど、この前、1億振り込んだと聞いて、こいつ本物だと思いましたよ。でも、こいつ本気みたいです。俺がけじめをつけます」
矢沢は腰から短刀を取り出し、左小指に当てた。
「浩! ヤメロー 俺の責任だろうが? やめてくれよ」
「やめろ! 矢沢」
沈黙していた会長が声を発した。
「1億ぐらいのはした金でガタガタ騒ぐんじゃねぇ! 矢沢! こんな小せいことに大事な体張ってんじゃねぇ。田所さんよ、いい友達持ったな。あんたが相場の世界から足を洗いてぇなら矢沢に免じて許してやるよ。マブダチに感謝しな」
その言葉を聞いた田所は気を失った。
気が付いたのは病院のベッドの上だった。
傍らには矢沢浩と田辺誠がいた。
「武、気が付いたか? 金のことは心配ねえぞ、親父が回状書いてくれたから」
「本当にありがとう、浩がいなかったら俺死んでるよ」
「田所さん、命がけで俺に教えてくれたんですね? 俺、相場師になるの辞めます」
「誠、それがいいよ。俺な、中学以来だよ、こんな安らかな気持ち」
2週間後、田所は会社を辞めた。
それ以降、田所武の名は伝説になった。




