バラの紋章へ
意識の混濁、そして唐突な光。
二十年。その歳月を、私は顕微鏡の奥にある真理と、通帳に残るわずかな残高の間で費やしてきた。理系のポストドクター。世間的な響きは立派だが、その実態は「学術界の非正規労働者」だ。不安定な雇用、終わりの見えない研究、そして非常勤講師として教壇に立つ日々の疲弊。
あの日、深夜の大学校舎。老朽化したエレベーターが不吉な音を立てて停止し、自由落下を始めたとき、私は恐怖よりも先に「ああ、これでようやく、論文の締め切りから解放される」とさえ思ってしまったのだ。
だが、神という存在は案外、皮肉屋らしい。
「おぎゃあ、おぎゃあ!」
……恥ずかしい。
自分の意思とは無関係に喉が鳴り、甲高い泣き声が響く。視界はぼやけ、焦点が定まらない。温かな液体と、自分を抱き上げる柔らかな感触。前世の記憶が鮮明すぎるせいで、おむつを替えられる瞬間の屈辱と言ったらなかった。
(……落ち着け。これも生存戦略だ。赤ん坊としての役割を全遂行しなければ、この脆弱な個体は維持できない)
私は、前世で培った冷徹なまでの客観性で自分を律した。
半年が過ぎた。
この世界はどうやら、中世ヨーロッパのイギリスに近い文化圏らしい。私の名前はエース・ランカスター。准男爵家の次男だ。
ようやく首が据わり、自分の意思で四肢を動かせる――いわゆる「ハイハイ」が可能になったとき、私の探求心は爆発した。
「ああ、エース。またどこかへ行くの?」
母、ベアトリスが穏やかに微笑みながら私を見守る。彼女は、私の前世には存在しなかった「無償の愛」の権化のような女性だ。
私は彼女のスカートを追い越して、廊下へと進み出る。
この屋敷は、地震の多い日本とは異なり、重厚な石造りだ。年代物の邸宅は、ポスドク時代に住んでいた築四十年のアパートよりもはるかに頑丈だが、一つだけ欠点があった。
(……チクッとするな。このフローリング、表面の研磨が甘い)
ハイハイで進むたびに、木の刺が掌や膝を刺激する。日本の「カンナ」という道具があれば、分子レベルで滑らかに仕上げてやるのに。私は、脳内で木材加工の物理的プロセスをシミュレーションしながら、石の廊下を直進した。
突き当たりにある、重厚なオークの扉。父、ヘンリ・ランカスターの執務室だ。
彼は退役軍人で、常に背筋を伸ばした堅物である。普段なら立ち入ることは許されないが、扉がわずかに開いていた。
中から、父の低い声と、誰かとの密談が聞こえてくる。
「……白バラが動き出した。教会の連中も、火魔法の使い手を集めているようだ」
「しかし閣下、ランカスターの赤バラは、未だに魔法騎士団の主流を外されております」
白バラ。赤バラ。
紋章学的な隠語だろうか。私は耳をそばだてた。
「世間では、土や火こそが真理だと信じられている。だが、我らが一族に伝わる『はずれ』の力――あれを神聖視する者はもういない」




