第18話「朱に染まる旗――令嬢、守るために剣を振るう」
城は朝の薄霧に包まれていたが、その静けさは緊張の前触れでしかなかった。前夜に公開された書類の山が、今や王都の話題を独占している。誰が本当に裏で糸を引いたのか、誰が利用されていたのか――疑惑は鋭く、民心は揺れていた。
セレスティア・ハイラントはいつものように早く起き、窓辺で城塞の方角を見つめる。頬に残る疲労は深いが、覚悟は揺るがない。ルシアの包帯の端を静かに撫でながら、彼女は小さく息をついた。
「今日、評議会は重要な審問を開く。宰相の動き、黒月の残党との繋がり、そして王宮内での改竄の出所——その全てをつなぐべく、我々は最後の線を引くつもりよ」
ルシアはセレスティアの言葉に強く頷いた。寝不足の目に、しかし確固たる決意が光る。
王太子アレクシスは、朝の諸侯の招集に先立ち、セレスティアに短い忠告をくれた。「今日の場は感情が先に暴走する。君が求める真実は、冷静と正確さだ。だが、君の勇気は我々の盾になる」その言葉に、セレスティアは僅かに微笑んだ。彼の掌は温かく、だが扱うべき刃は冷たい。
評議会は昼の正円広間で開かれた。大理石の床に拍子木の音が鳴り、列席する公卿と高僧、軍の長たちの顔つきは険しい。セレスティアは壇上の一角に立ち、ルシア、サミュエルと共に証拠の書類を整えた。数日前に倉庫で押収した原盤、印影の比較、保管庫の不自然な改竄痕——それらを時系列に沿って示すことで、彼女は会場の注目を一点に集めようとしていた。
「我々はただ、事実を示すのみです」セレスティアの声は明瞭で、会場のざわめきを切り裂く。「ここに示すのは、単なる紙片ではない。民の信頼を裏切り、王国の舵取りを偽造しようとした者たちの設計図です」
証拠が示されるごとに、陳述は会場の空気を冷たくしていく。幾つかの印影は宰相の公文書と一致するが、蝋の混合物の粒度や紙の繊維で差異が出る。筆跡の重ね書きの癖は、保管庫に出入りする特定の番人の手癖と符号した。聴衆の中には険しい表情で顎を引く者、ちらりと視線を合わせる者、顔色を変える者がいる。
その時だった。評議会の一角から、低い声が立ち上り、次第に熱を帯びる。ヴェルネール宰相の取り巻きで名の知られた老貴族、ベルカンプ男爵が立ち上がり、鋭い声でセレスティアを詰る。
「あなたは何を根拠にここで人を糾弾するのか。根拠なき暴露は秩序を乱す!」
男の言葉に、支持者たちが追随する。場は瞬間的に割れ、抗弁の声が飛び交った。だがセレスティアは動じない。彼女は一枚の証拠を静かに差し出した。
「では聞いてください。この紙は——港の倉庫で発見された、偽造の印影と対応する原盤の一部です。インクの配合は——あなたの直轄領で用いられる特定の鉱質を含む」
男爵の顔が真っ青に変わる。会場がざわつく。ベルカンプの唇が引き裂かれるように動き、だが言葉は出ない。
「それでも、我が名を汚すのか」と男爵が最後に吐いた。だが証拠は冷酷だ。サミュエルがその場で複合試験の結果を示し、ルシアが匂いと痕跡を説明する。証拠は、少しずつ男爵の周囲の糸を解き始めた。
そのとき、広間の奥に置かれていた一対の燭台の影がふっと揺れ、誰も気付かない間に細い矢が、空気を切って飛んだ。矢は、壇上でセレスティアの胸元をかすめる——それは暗殺の意思が込められていた。だが矢はルシアの肩を貫き、彼女は悲鳴とともに壇上へと倒れ込む。
「ルシア!」セレスティアは全力で駆け寄る。束の間の静寂、その後に起きたのは阿鼻叫喚だった。王宮の衛兵は一斉に走り、数名が男爵の側にいる疑わしい者へと飛びかかる。アレクシスは鋭く吠え、命じる。「無差別に撃て! だがまずは、事態を抑えて!」
ルシアの血は壇上の白布に赤い羅列を描く。彼女は苦痛の中で小さな笑みを浮かべ、かすれた声で言った。「お嬢様……先に行って。真実を……私は、まだ――」だが言葉はそこで途切れ、瞳が薄暗く沈む。セレスティアはルシアを胸に抱き、叫びを上げる。手は震え、指先は血に滑る。
だが冷静さは必要だ。サミュエルが迅速にルシアの応急処置を行い、衛兵が現場を封鎖する。矢の飛来角、使用された鋭器の材質、矢の羽根に残る繊維――そのすべてが即座に検証される。調査の結果、矢は城内の一隅にある武具庫の特別保管品から紛失したものであり、男爵の近習の殿下がその夜、動いていた記録が現れる。
会場は怒号と恐怖で包まれる。ベルカンプ男爵は白い顔で呟く。「我が一派が……汚名をそそぐための仕組みだ。私がそんなことを!」だが誰も聞かない。王太子の顔は蒼白だが、冷たく決然としていた。「誰の命を犠牲にしても、国の安寧を保つというのか」と彼は低く吐き、その声は全員の胸に重く響いた。
混乱の中、ひとつの事実が浮かび上がる。矢には特殊な粉末が付着しており、その粉末の成分は、先日倉庫で見つかった「白い手袋の血」と一致した。つまり、今回の暗殺未遂は、偽造の暴露を止めさせるための手段であり、模造証拠の拡散と同じルートで企てられていた可能性が高い。
セレスティアはルシアの手をぎゅっと握りしめ、唇を噛んだ。ルシアの目は薄く揺れているが、呼吸はある。医師団が駆け込み治療を始める。民の一部は泣き、また一部は怒りに燃える。評議会の場は変わった。もはやこれは単なる暴露の公論ではない。命が削がれ、代償が現実になった。
その夜、セレスティアは王太子に寄り添いながら、暗い部屋で低く呟いた。「私は断罪を望んだ。だが誰かが人を殺してまで私を止めようとするなら——私は許さない。断罪は、今や私が守るべきものになった」
アレクシスはその言葉を聞き、そっと額に口づけた。「君が守るなら、我々は共に守る。だが復讐は法の中で。私が誓う」
窓の外、城壁に赤い旗がゆっくりと翻る。誰かが世論という風に火を灯す。闇の中で、リュシアンの笑いがどこからか聞こえた気がしたが、それはただ風のいたずらかもしれない――あるいは、次の幕の序章だ。
だが確かなことが一つある。守るために剣を振るう者が現れたとき、世の中はこれまでとは違う速度で動き出す。セレスティアは、赤に染まる旗の下で誓った。真実を曝し、誰が民のために裏切りを働いたのかを、彼女自身の手で明らかにする——たとえそれが、誰の首をも揺るがすことになろうとも。




