花よりも、クリスタルよりも
食堂内を覗いてみると、固まってお喋りをしていたメイドたちが、慌てたように散らばって仕事に戻る。いつもより少し早く食堂へ来てしまったせいで、朝食の支度はまだ整っていない。
なるべくさりげなく踵を返す。私が食堂にいると、みんなを不必要に焦らせてしまう。
廊下に戻って、何となく玄関のほうへ向かった。トウヤも、私に伴う。建物の中央に位置する玄関ホールの、さらに中央にある大階段。降りきってすぐ、手すりの横に花台がある。複雑な色付けがされた陶器の花瓶に、丁寧に花が生けてある。
慈しみの象徴みたいな薄紅色の花、私が眺める視界のさなかで、ひとひら。
柔らかな絨毯の上へ落ちた。
高窓から降る白い光が清らかにきらめく空間で、落ちた花びらは無機質に佇んでいる。生花であったときのまま匂やかで美しいのに、どうしようもなく寂しげで、何故だか私が泣きたくなった。
相対する誰かの涙を掬い取るような手つきで、引き寄せられるように指先を伸ばした。爪の先で、白い光があえかに瞬く。
花びらに触れようとした、その刹那に、白い静謐を揺るがすように、玄関の扉が慌ただしくひらいた。
驚いて、扉の方を振り向いて、
「お父様……っ!」
私は大きく目を見ひらいた。下士官に支えられたお父様が、満身創痍の姿で玄関へ入ってきたから。
「応急的な処置は済んでおります」
軍服をきっちりとまとった下士官は、義務的な口調でそう言い置いた。そうして、歩み寄ったトウヤにお父様を預けて、屋敷を出ていく。
敬愛も忠義も、その一切が存在しない振る舞い。
私はぎゅっとくちびるを噛み締めて、お父様に駆け寄った。汗ばんだ頬に触れ、青ざめた面差しを覗き込めば、私とお揃いの紫の瞳が少しだけ和らいだ。
「アネット……」
弱い声で私を呼んだお父様は、私の額へ手を伸ばし、金色の前髪を梳くように撫でた。
まるで、幼子を慈しむような仕草。
束の間、呼吸を止めた私に、お父様は問うた。
「アネット。昨夜は……素晴らしい夜になっただろうか」
昨夜――私の、初めての舞踏会。
冷ややかな眼差しと、密やかな好奇心。脱ぎ捨てたハイヒールと突き付けた杖先――昨夜の有様が脳裏を過り、私の眼差しは頼りなく揺らぐ。
「昨夜は……」
口をひらいた。
だけど、言葉が淀み、続かない。
ひどく困窮して、声にならない息を零したとき、
「昨夜のアネット様は、実に堂々とした振る舞いでいらっしゃいました。アヴェンヌ家のご令嬢としてのお役目を、確と果たされたかと」
トウヤが、丁寧な声音でそう言った。後ろめたさなんて一切感じさせない、誠実な声だった。
お父様が、トウヤの言葉を容易く信じるくらいに。
「そうか……! ああいや、元より心配などしていなかったよ。何せ、おまえは私の自慢の娘だ」
はっきりとした安堵の表情を浮かべたお父様は、私の髪をもういちど撫でる。
「おまえは母さんに……エリアーヌに似て、朝露にきらめく花よりも、透き通ったクリスタルよりも美しい」
ぎゅっと眉根を寄せる私を、お父様がそっと引き寄せる。
「おまえは必ず、王太子妃になれるよ」
髪を慈しんだ手つきが、私を大切に抱きしめる。
「必ず……誰よりも幸福な姫になれる」
泣き笑いに似た、息遣い。
切実な響きを受け止めながら、どうしようもなく泣きたくなった。
お父様は私を愛してくださっている。
将軍の地位にありながら、紛争地域の前線に派遣されても。
心臓に疾患を抱えながら、それでも危険な場所で戦わなければいけなくても。
私を愛してくださっている。
将来の安泰が約束されたはずのアヴェンヌ家、その家柄を貶めたのは私なのに。
私が欠陥品だったから、アヴェンヌ家はこの国で冷遇されているというのに。