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星の夜のデビュタント

 軽やかなワルツの音律と、シャンデリアの豪奢なきらめき。絢爛な宝石の輝きに、華やかにひらめくドレスの裾――めくるめくみたいな色めきのさなかに、息をひそめるみたいに。

 冷ややかな眼差しと、好奇心。

 掠めるように、私に向けられる興味。

 その一切をまったく意に介さないというように、背筋を伸ばしたまま、トウヤを待つ。

 花びらを重ねたみたいなドレスの裾の内側で、踵にひりひりとした痛み。

 ほんの些細な靴擦れでしかない。それでも、私の忠実な従者は、私の足の具合を大いに心配した。私を、風の通る窓際までエスコートして、冷たい飲み物を取ってくると言った。

 トウヤが私のそばを離れた、その束の間で。

 私がトラブルに首を突っ込んだと知ったなら、彼は額に青筋を立てて怒る――もしくは、従者の役目を果たせなかったと、彼自身を責めるかもしれない。

 それでも、放っておけるわけがなかった。

 下卑た笑いを浮かべた男によって、ダンスホールから連れ出されていたのは、小鳥を操る見世物をしていた少女。面差しにはまだ幼さが残っていて、今年十七になった私よりも、ひとつかふたつくらい歳下に見える。少しだけ緑がかった色素の薄い髪は、東方の隣国、ヴァルト国特有のものだ。

 髪と同じく、緑の色合いを持つ瞳は怯えていた。ダンスホールから廊下に出た途端、男が空き部屋に連れ込もうとしたからだ。

 身体全体に贅肉を蓄え、宝飾品をいくつも身につけた男は、確か――べランジェ・ド・グノー。貿易で莫大な収益を上げ、金銭で男爵の称号を手にした成功者。

 グノーが、少女を室内に押し込む。私は、ここまでかろうじて保っていた慎重さを放棄して、駆け出した。蹴飛ばすような勢いでハイヒールを脱ぎ捨てて、グノーの腕を掴む。

「何だ……!」

 グノーが、私を振り向く。わずかばかり焦りをにじませていた表情が、目が合った途端、非力な女を侮るものに変わる。宝石の嵌め込まれた杖で、とん、と床を打ちながら、グノーは歪に笑った。

「……これはこれは、アヴェンヌ家の。残念ながら、あなた様はここにお呼びでないのですよ」

 グノーはそう言って、私の手を振り払った。私はグノーの充血した目を見据え、わざと不敵に見えるように笑ってみせる。

「なら、この子にだって、下衆なあなたはお呼びでないわ」

「――この……ッ、」

 顔を紅潮させたグノーが私に詰め寄り、杖を振り上げる。――かかった!

 振り上げられた杖を躱し、杖の中ほどを腕で巻き取るようにして杖を奪う。

 長物さえ手にしたら、私が負けるはずはない。

 一呼吸と同時に杖を構え、私に掴みかかろうとしてきたグノーの腕を打ち払う。引き攣れた呻き声を上げたグノーが後ずさるのを逃さず、派手なスラックスをまとう足元を払った。

 ズシン、と重たい音がしてグノーが床へ尻を突いた。その眼前に、勢いよく杖先を突きつける。

 見ひらかれた目の中心で、鳶色の瞳が小刻みにふるえている。その有様を見下ろしたとき、背中側から慌ただしい足音が聞こえた。

「アネット様……また、あなたは……!」

 予想していた通り、私の忠実な従者は額に青筋を立てた。

「危ないことはしていないわ。この通りよ」

 眼差しで無抵抗のグノーを示し、けろりと言ってのける。トウヤは表情を険しくして、何か(おそらくは何かしらのお説教)を言いかけたけれど、壁際で怯えている少女に気づいたようで、雪解けのように眼差しを優しくした。

「……大丈夫か?」

 トウヤと私を交互に見つめた少女は、

「え……ええ、ありがとう……ございます」

 ヴァルト訛りのクラルテ語でそう言って、後ずさるようにして、ダンスホールへ戻って行った。

 それを見届けて、グノーの眼前から杖を下ろす。

「これに懲りたら、今後一切、下衆な企みを思いつかないことね。あなたの非道な欲望は、あの子の心を殺すことよ」

 つい今までうろたえた表情をしていたグノーは、息を吹き返したように、表情を歪めて吐き捨てた。

「アヴェンヌ家のアネット……子を成せない欠陥令嬢が」

 私がわずかに目を見ひらいた、――その途端。

 トウヤがグノーの襟元を掴み、彼の身体を壁に押しつけた。

「……もう一度仰ってみますか? 私は、アネット様のように慈悲深くありませんが」

 静かで、いっそ優しげにも聞こえる声。けれど、夜色の眼差しは冷ややかで鋭い。――端麗な面差しがまとう酷薄さは、得も言われぬ凄みがある。

 トウヤに見下ろされて、グノーは面差しにはっきりと怯えを浮かべた。その表情を見て、はっとするような心地で、私はトウヤを制す。

「……やめなさい。負け惜しみに構うことなんかないわ」

 忠実な従者は、「わかりました」と従順にグノーを手離す。グノーは手足をばたつかせながら、

「クソが……ヴァルトの女なんか庇いやがって……」

 悪態を吐いて逃げ去った。

 その悪態の醜悪さに眉根を寄せたけれど、

「――アネット様」

 トウヤに呼ばれて、私は我に返る。

 トウヤは、険しい表情をしていた。だから、懇々とお説教をされるのだと思った。

 けれど、

「申し訳ございません。あなたを、ひとりにしてしまいました」

 痛みを堪えるような眼差しで、彼は頭を垂れる。

 私は小さく息を吐いて、トウヤの頬に触れる。爪の先に、彼の漆黒の髪がさらりと掠めた。

「私は、あなたの忠誠を疑ったことはないわ」

 少しだけつめたい頬を撫でて、私はきっぱりと言い切る。

「だから、あなたにそんな顔をされるのは、心の底から不本意よ」

「……アネット様」

 噛み締めるような声で、トウヤが呟く。そんな彼の肩をぽんっと叩いて、脱ぎ捨てたハイヒールを探しに行った。


 ハイヒールを回収したあと、ダンスホールには戻らなかった。華やかな社交場に戻ったところで、きっとお父様が望むような成果は得られないとわかっていたから。

 星月の儚いきらめきをまとう風が、私の髪と綯い交ぜになる。光を織り込んだようなブロンドは、お母様から受け継いだものだ。――私は、肖像画でしか、そのお姿を知らないけれど。

 ドレスの内側で、靴擦れの傷がひりひりと痛む。それでも、ちゃんと正しい足取りで歩きながら、私はトウヤを振り向く。

「今夜のこと。お父様には、内緒にしてね」

 冗談めかすように、いたずらっぽく笑った。トウヤは、私の目を見つめ返すだけで、何も答えなかった。

 だから、馬車寄せの段差を下りて、馬車に乗り込みながら。

 静けさをごまかすように、あくまで軽やかに自嘲する。

「だめね……。ちゃんと、花のように淑やかなお嬢様にならなきゃいけないのに」

 今度も、トウヤからの返事はないと思った。

 けれど、私の後から馬車に乗り込んだトウヤが、私を呼んだ。

「アネット様」

 真摯めいた静かな声に、「手を」と言われたところで、意図を理解する。

 差し出された手のひらに、そっと指先を乗せた。

 骨ばった指が、私の指を握り込む。

 トウヤが、ひとつまばたきをした。その刹那、触れ合った肌から、優しげなつめたさが流れ込んでくる。それはまさに清涼な水の手触りで、私の内側へ一切の抵抗なく染み込む。

 途端に、身体全体が軽くなる。疲労感が消えて、靴擦れの傷も、ひりひりとした痛みが和らいだ。

「……ありがとう」

「いえ」

 短く応じたトウヤは、私の指先を手離した。そうして、窓の外に眼差しを向ける。

 私はごくさりげなく、指に残る彼の温度ごと、膝の上で手のひらを握りしめる。

 トウヤが私に与えたのは聖なる力。『清浄の気』とマレの国では呼ばれているそうだ。

 私がこの身に宿す呪いは、トウヤに与えられる清らかさで、いつか浄化されるらしい。

 膝の上の手のひらを腹部に滑らせて、私はそっとまばたきをする。そのまま眼差しを窓へ向ければ、ガラスの向こう。

 星空にそびえる荘厳な王城。

 ――呪いが浄化されたそのときには、きっと。

 きっと、私は王太子妃になるの。

 誰よりも国に忠誠を誓う、高潔なお父様のお望みの通りに。

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