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ジャズバーでピアノを弾くようになってありがたかったのが、人と会話する機会が増えたことだ。
リモートワークでプログラマとして働いていると、下手をすれば1日声を出さないことがある。ミーティングや電話で会話することもあるが、必要最小限だ。プログラマという職種に、何気ない雑談をゆるく続けられるタイプは少ない。週に1、2度の出社で実際に顔を合わせても同じだ。リモートで無口な人が、顔を合わせたからといって饒舌にならない。朝に「おはようございます」夕方に「お先に失礼します」。それだけ。僕も自分はコミュ障だと思っていて、楽といえば楽なのだが、喋りたくないわけではない。バーで酔客と言葉を交わすのは、よい気分転換になった。
ほろ酔いのコミニケーションを観察していると、会話は継続して鍛えるべき能力であり、その能力を維持するためには反復練習が必要だ、ということが分かってきた。頭で考えて会話しているのではないのだ。考えるより先に口が動いている。スポーツと同じだ。だからスポーツと同様、技術が重要なのだ。
持ちネタや定番ネタの使い方、誰も傷つかない面白エピソード。短期間に同じ話を繰り返すのは厳禁だから、時々入れ替えたり、古い話を掘り起こしたりする。話し方も重要だ。ありがちなトークでも、楽しそうに話したり大袈裟に話したりすると退屈させない。工夫すれば大して面白くないオチのない話を、少なくとも退屈ではない話に底上げすることができる。
また会話を支えるのはいわば"筋肉"である。しばらく会話しないと"筋力"が落ちてくる。少なくとも週に何回かは実際に会話をするか、あるいは少なくとも頭の中で会話を組み立てるかして"筋トレ"する必要がある。
服装にも気を使うようになった。今思えば、服装に気を使うという態度を叩き込まれた、といった方が正しいかもしれない。
きっかけは”C7"で初めてピアノを弾いた時、カウンターにいた婚活女子のマツカワさんである。
バーでピアノを弾くようになって数週間後のとある日、彼女がカウンターにいた僕の隣に来て、キツく言い放った。
「もう少しマシな格好しなさいよ」
「え?」
その時僕は、学生の頃から着ている膝の膨らんだジーンズと、ヘタリ気味の紺色のシャツを着ていた。
「コンビニ帰りに商店街のストリートピアノ弾いてるんじゃないんだよ」
「いや、商店街になかなかストリートピアノはないと思いますけど」
救いを求めるように見回してみたが、少し離れたマスターが小さく頷いているのが見えた。どうやら僕の味方はいないようだ。
「今週中にユニクロ行ってマネキン買いしてきなさい」
不機嫌そうな言い方だ。何か嫌なことでもあったのだろうか。僕は曖昧に笑った。なぜ他人から服装をとやかく言われなければならないのか。と聞き流す。
「ちょっと!本気で言ってるんだけど!」
と追い打ちをくらう。逃がしてくれるつもりはないらしい。
「マジですか」
「マジよ!いい加減にしなさい」
舌打ちせんばかり。僕に怒られなければならない非があるということなのか?
「スミマセン、僕ファッション全然わからなくて」
「は!」
だんだん不安になってきた。
「失礼なのよ」
「はい?」
「お店のピアノ弾くんでしょ。最低限の格好はしなさいよ。ブランドじゃなくていいから。礼儀ってもんがあるでしょ」
いつものゲームだと思っていたら、僕の知らないルールが周りで進行し始めたような気分がした。
「スーツじゃ、ダメですか?」
「多分ダメ。どうせ疲れた新人サラリーマンにしか見えないでしょ」
その通りだった。量販店で適当に買った安いスーツだ。僕が勤めているのはファッショナブルな会社ではない。営業を見ても役員を見ても、カッコよくスーツを着こなした人はいない。エンジニアはいうまでもない。スーツをカッコよく着るなどという発想は持ったことがない。だんだん彼女が正しいような気がしてきた。
「よし!じゃ、今ユニクロ行ってきます。マスター、ちょっと外しますね」
「え?」
「え?」
と二人が声を上げた。
「や、もうなんだか、今の服にいたたまれなくなりました」
マツカワさんが吹き出した。
「しょうがない。責任取って付き合ってあげるよ。マスター、私もちょっと外します」
「いってらっしゃい」
とマスターが笑いながら言った。
バーを出て、二人で東武のユニクロに向かう。
「決断が早くてよろしい」
とマツカワさんが僕を見て言った。
「自分の服がめちゃくちゃ恥ずかしくなってきたんですけど。どうしてくれるんですか」
「気がついてよかったじゃない」
エスカレータを登ってメンズのフロアを歩く。
「これ」
と彼女がマネキンを指差した。
スリムのチノパンツ、色はブラック。紺色のTシャツの上に、グレーで襟が広い、無地のシャツ。とりあえず無難なことはわかるが、敢えてこれを選ぶ理由が分からない。
「地味っすね」
マツカワさんが数秒間じっと僕の方を見た。『黙ってろ』と意味だろう。
「や。分かりました」
素直に従う。もう考えないことにした。
「ガラものはやめときなさい。パンツは細めで」
僕は10分ほどかけて同じ服を探し出して、マネキンのタグと見比べた。
「試着は?」
「した方がいいですか?」
「当たり前でしょうが」
ウェストサイズに確信がなかったのでパンツのサイズは2種類にした。外にマツカワさんがいると思うとどうも落ち着かない。着替えてカーテンを開けると彼女が近寄ってきた。
「いいんじゃない。ずいぶんマシになった。若いっていいわねえ」
それから足元にある僕の古ぼけたアディダスのスニーカーを冷ややかに見た。
「週末にABCマートでも行って新しいの買いな」
「分かりました」と僕は素直に言った。
「着て帰るよね?」
「や、そうですね」
元の服に着替え、鏡を眺める。思ったよりみすぼらしく見えた。
「清算したらレシート持って試着室に来てください、だって。タグを切ってくれるそうよ」
「すみません。ありがとうございます」
ユニクロを出てエスカレータを降りる。紙の袋に入った古い服は、なんだか少し恥ずかしそうに見えた。この服も僕の一部だったのだ。
「今日はありがとうございました。後で一杯おごらせてください」
「そうしてもらおう」
と彼女は笑った。
"C7"のドアにの前で時計を見ると出発してから1時間経っていなかった。
「早いね」
とマスター。
「マツカワさん、仕事できる人です」
「ってかしょせん他人事よ。自分のだったらこんなあっさり決めないわ」
「ひどいな」
「確かに垢抜けたよ」とマスターがフォローを入れた。
「ありがとうございます」
「さっきも言ったけど、二年、いや一年くらいで買い替えなさいよ。まだ着られるとかそういうことじゃなくて。そうだ。靴を買うついでに週末は美容院にも行きなさい」
「たたみかけるね」とマスターが感心して言った。
「弟がいるんですよ。いつも野暮ったくてね。もうアラサーになるのにさ、ボロボロのカッコして。昔っからそうよ。どうして男の子ってああなのかね。意地張ってさ。あと変なガラものとか、謎のこだわり。バカみたい」
「きっとそれどころじゃないんですよ」
僕は弱々しく弟さんをかばった。
「ユニクロ行ってマネキン買いして髪型整えるのがそんなに嫌か」
「大変なんですよ」
僕の声はかぼそい。
「とにかく!」
マツカワさんがキッと僕を睨んだ。
「君はもう少し見かけに気を遣いなさい。せっかく人前でピアノ披露してるんだから!」
マスターが小さく頷いたのが見えてしまった。
週末、僕は美容院に行った。髪型のセットの方法を聞いてヘアアイロンと整髪料を買った。それから新しいスニーカーも買った。出社した時、何か言われるかと思ったが、誰も僕の髪型など気にしていないということは分かった。