8
平日の1日。ライブがない時に、19時からピアノを弾く。
20時くらいに一段落してカウンターに戻ると、あらかじめ注文しておいたサンドイッチとナッツをマスターが出す。つまみながらビールを一本だけ飲む。それ以上は飲まない。演奏に影響がでるかもしれないからだ。8時くらいだとまだまだシラフの客が入ってくる。派手な演奏はできないから、せめてみっともない演奏はしたくない。
ある日のこと。ナッツを齧りながらビールを啜っていたら、僕の隣に誰かが座った。六十代後半くらいの太った男だ。初対面のはずだ。薄くなった白髪を後ろに撫で付け、無精髭が生えている。少しよれた白のカットソーを着ていた。空気が流れると少し脇の臭いがした。
「あなた、なかなか上手いね。プロ?」
「いえ。とんでもない。素人です。マスターの好意で弾かせてもらってるだけです」
「ノーギャラってこと?ここのマスター、ひどい人だね」
僕は慌てて補足する。
「や、すみません。たまに小遣いは頂いてます」
「だったらプロじゃないの。いくらくらい?」
あっさり聞いてきた。確定申告が不要なくらいですね。と僕は答えた。
「僕はジャズバンドやってるんだけどさ」
「そうなんですね」
「うちでピアノ弾かない?探してるんだよね。いや、本当は若い女の子がいいんだけど。あはは」
僕は曖昧に頷いた。冗談めかしいてはいたが、どう見ても本心だ。あまり感じはよくない。
「考えておいてくれると嬉しいなあ。黒本(※)は一通り演奏できるよね」
「速い曲とかは難しいです」
「練習すれば大丈夫でしょ」
「それはまあ」
「僕、何の楽器やってるように見える?」
なんとなく彼の指を見てみる。無骨な指だ。あまり芸術を連想させない。
「なんだろう。管ですよね」
「テナーサックスだよ」
そう言って彼は僕に名刺を渡した。「Nothing Else 〜 代表 山﨑 光一」とある。
「近いから一度来てね」
と言いながら席を立った。僕は頷いて名刺を胸ポケットにしまった。
「マスター悪いね。スカウトしちゃった。お勘定お願い」
マスターが、何も問題ありません、という意味の微笑みを浮かべながら金額を伝えた。
「あの人、ご存じですか?」
その客が出て行くのを目で追ってから、僕はマスターに聞いてみた。
「この世界は狭いからね。有名といえば有名だ。あ、演奏家としてじゃなくて、ライブハウスのオーナーとしてね」
「なるほど」
確かにジャズのライブハウスがそうたくさんあるわけもない。そういえば学生時代に聞いたことがあるような気もした。行く機会はなかったけど。
「どんな方なんですか?」
「確か、サラリーマン引退して退職金はたいてライブハウス開いたとかなんとか」
「そりゃすごいな。大したもんですね」と僕は素直に感心する。そういう生き方もかっこいいじゃないか。
マスターは小声で続けた。
「でも苦手にしてる人も多いよ。悪い人じゃないんだけど、クセは強いかもね」
「そうですか」
と僕も小声で答えた。さっきの会話でもちょっとした違和感はあった。上手くいえないが、一方通行のコミュニケーションだった。求められている返答は Yes か No か。相手に特に期待はしていない。ある意味では楽だが、「ライトなダメ元」は他者と関わる態度じゃない。
名刺をポケットから取り出して、さてどうしたものか。と眺めていたら、常連の人から「もう弾かないの?」と声をかけられた。いつも高そうな帽子をかぶり、きちんとした格好をしているアラフォーくらいの男性だ。アルコールのせいもあるだろう。いつもにこやかで感じがよい。
「いいですよ。えーと、何かリクエストあります?」
「そうだなあ」
「あまりアップテンポじゃなければ」
「そうね。じゃあブルース。Straight, No Chaser はどう?」
弾きやすい曲だ。分かってらっしゃる。
「はい。大丈夫です」
カウンターから席を外してピアノの前に座る。ゆっくりと息を吸いこんで吐く息をそのまま指に乗せ、フォルテでテーマを叩き込む。テンポは160bpmくらい。少し速めだ。テーマが終わってからアドリブへ移る。左手はウォーキングベースをキープ。アドリブ2コーラスはストックフレーズでしのぐ。指が覚えているのだ。次はコードの構成音(F7ならファ、ラ、ド、bミ)で駆け上がってからのブルーススケール。コールアンドレスポンスで組み立てる。これで2コーラス。あとはノリで時々ドローン(※)を入れながら、その場で思いつきのブルーススケール・フレーズを弾く。その間、左手はずっとウォーキングベースを弾き続けている。
ブルーススケールは面白い。適当に叩けば退屈で気の抜けたフレーズになる。ところが少し頭を働かせて工夫するだけで途端にフレーズが生き生きとする。たった6つの音の組み合わせが無限にメロディを生みだす。そんな気がしてくる。それで2コーラス。テーマに戻って、最後にF7(#9)一発で曲を締めた。
リクエストしてくれた常連おじさんが頷きながら拍手をしてくれた。会釈を返した。演奏中も時々ちゃんと聞いている風にこちらを見ていた。礼儀正しいのだ。他の客は会話に勤しんでいた。大きなミスをしない限りは誰も演奏を気にしない。却って集中できてありがたい。さっきの演奏は、我ながら気合いが入っていた、と思う。
黒本をめくり、次の曲を選ぶ。意外と弾ける曲は少ないのだ。毎回「ほとんど弾ける(はず)」と思ってページをめくり始めるのだが、気楽に演奏できるのはせいぜい3〜4割だ。プロ野球なら4番を張れる数字でも、ジャズ・ミュージシャンとしては素人だ。バラードで一息入れよう、とBody And Soulのページを開いて弾き始めた。
バラードは楽だ。ゆっくり弾けば演奏時間が長く取れる。アドリブもゆっくり、考えながら弾ける。テンポが遅く盛り上がりに欠けるから、客は途中で飽きて無視し始める。適当に休憩しながらそのまま2、3曲。最後にバッハを弾いた。ジャズとは別の指の動きが練習になるのだ。21時まで演奏して切り上げた。いつものようにシンクに溜まった皿を洗ってマスターに挨拶をした。この日のギャラは2千円。客が少ない時はこんなものだ。申し訳ないような恥ずかしいような気持ちで受け取る。
「もう少し弾いていかないの?」とカウンターから声がかかる。
「すみません、明日早くて」と笑顔で返す。バーの扉を押して外に出る。夜の空気が涼しい。僕は学生時代にバンドで演奏したときのことを思い出しながら、池袋の雑踏を歩いて家に向かった。
※ 黒本:ジャムセッションでよく使われるジャズスタンダード曲の楽譜集。
※ ドローン:メロディの上に1度や5度の音を重ねること。Fブルースならファやド。