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ようやく残暑が終わり、朝晩が涼しくなってきた。買い物のついでに裏通りの住宅街を散歩していると、どこからともなくキンモクセイの香りがした。ひときわ強い香りを感じて当たりを見回すと、2階建ての賃貸アパートの周りに、都会のグレーに薄く染まった金木犀の生垣が見えた。
本業のプログラミングの方は一段落し、毎日ほぼ定時で仕事は終わっていた。時折問い合わせがきて調査、報告するくらいだ。昼休みに余裕を持って買い物に出かけられる。ミーティングも減ってきて、昼食をのんびり取れる日が増えた。仕事の合間に新しい言語や開発ツールを勉強したり、短時間ながらピアノを練習したりという余裕もできた。
練習に気を使うようになってから、ピアノがずいぶん上達した。といっても速く弾けるようになったとか、多くの音を強く素早く繰り出せるとか、派手な技術ではない。左手をほぼ見ずに安定して弾けるようになった。右手で咄嗟に出せるフレーズが増えた。楽譜を見ずに弾けるレパートリーが増えた。そういう話だ。高校生にピアノを辞めてからも練習は続きてきたつもりだった。今振り返れば質の悪い練習をしてきたと思う。
数十メートル先に公園が見える。幼稚園くらいの子どもたちが歓声を上げて走り回っていた。ベンチには母親らしき三人が熱心に話をしていた。見上げると秋の高い空が広がっていた。僕はふとキース・ジャレットの神がかったピアノソロ演奏を思い出した。ケルンコンサートだ。
左手がジャズロックのベースラインを刻み、右手でメロディを産む。それだけではない。中音域でも並行して音が出ている。右手、左手の親指人差し指が動いているはずだ。頭では分かるが理解が追いつかない。10本の指がそれぞれ別の意思でリズム、ハーモニー、メロディを生み出しているようだ。いや、違う。キースの中にベースとコードとメロディが並列して生まれ、それを10本の指が踊りながらピアノに打ち込んでいる。3人がかりの演奏といってもおかしくはない。人間業ではない。
初めて聞いた時は圧倒された。これは本当に即興演奏なのか?と何度も考えた。半世紀も昔の演奏だ。考えて分かることじゃない。本人にすら分かっていないかもしれない。指に染み込んだフレーズがあるとして、それが突如浮かんだとしたら?漠然としたイメージ、事前に構成イメージを持って取り組んだら即興ではないのか?そもそも即興演奏ってなんだ?どこまでが即興でどこまでが非即興なのか。確かに即興演奏にしてはいささか構成がしっかりしている気がする。しかし、演奏を始めた以上は終わらせなければならない。目的地は必要なのだ。
あらかじめ構成は考えているだろう。導入メロディは練られたものに違いない。それ以外は即興演奏だろうか?どの程度?アドリブなんてグレーゾーンだ。どこのグレーを選択するかは奏者に任せられる。でも僕には関係ない。選択の余地がない。技術が足りない。他人を気にする必要はない。
買い物を済ませて自分の家に戻った。冷蔵庫からバターを出して薄く切る。きゅうりを薄くスライスしてキッチンペーパーに乗せる。残ったきゅうりは立ったまま食べてしまう。買ってきたパンにバター、スライスしたきゅうり、ハムを乗せ、マヨネーズをかけてサンドイッチを作る。ナッツをつまみながらコーヒーを沸かして飲む。
MacでSpotifyを開き、キースのケルンコンサートではなく、同じピアノソロのブレーメンコンサートを再生した。ケルンコンサートと違い、テーマらしいテーマもない。キースのアイデアはあっちこっちに飛んで僕の意識は簡単に振り切られてしまう。電車にのって流れる風景を見ていたかと思えばいつのまにかモノクロの抽象画が目の前に展開する。かと思えば荒くれた波打ち際で、雲が飛ぶように流れる。と思ったら岩だらけの高い山を全力で駆け降りる。計画性のある展開には見えない。構造があったとしても少なくとも僕に把握できるスケールではない。キースの思念からあっさりと振り落とされ、ただのBGMとなった。僕は全く別のことを考えながらサンドイッチをかじった。
皿をざっと洗ってブレーメンコンサートを止め、ピアノに向かう。ケルンコンサートの第一曲の楽譜を探す。以前に少しだけ耳コピしたのだ。最初の2、30小節をゆっくり弾いてみる。最初はDドリアンにAナチュラルマイナーが混ざったようなサウンド。Gミクソリディアンに移り、Dメジャー、Fメジャーへとそれぞれ一瞬移調して、Bロクリアンの呪術的なリズムに移る。美しく、かつドラスティックだ。あらかじめ考えられた構成に違いない。ゆっくりと弾いて曲の構成を確かめながら、いつの間にか昼休みは終わっていた。会社のPCにメールも通知も来ていないことを確認した。ずっとケルンコンサートを弾き続けるわけにもいかない。2、3小節ほど耳コピを進めてピアノを切り上げ、仕事に戻った。