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はっきりした目的なしにぼおっと練習してもなかなか上手くはならない。趣味スポーツ芸術、何についても言えることだ。”C7"で冷や汗をかいた後、惰性で練習してたことを反省した。社会人になってからはまともに練習してなかった。ただ、だらだら弾いていただけだ。


練習の目標をはっきりさせよう。大事なことは二つ。第一にリズムをキープしたまま最後まで、落ち着いて演奏できるようになること。メロディやコードを多少ミスってもバレないが、リズムが途切れると誰が聞いてもミスったと分かる。それから楽譜なしで弾ける曲を増やすこと。いずれも一朝一夕にはできない。日々の練習の質を上げて地道に続けるしかない。


まずは"Someday My Prince Will Come"を仕上げるために、繰り返し練習した。それから"Fly Me to the Moon"にとりかかる。AマイナーとCメジャーが入れ替わる曲だ。フラットやシャープは少ない。白鍵メインだから簡単な曲のようにも見えるが、実は左手が弾きにくい。黒鍵があった方が距離感が分かりやすいのだ。左手を意識してゆっくり練習する。"アドリブ"は市販の楽譜からの借り物と耳コピベースにアレンジ。"Fly me"にはブルーノートをたっぷり仕込んでおいた。


バッハの練習は自然に少なくなった。ジャズの練習としては即効性がないからだ。


1週間後、再び開店直後に訪れた。素人がジャズバーのピアノを借りて練習するのは相当厚かましいことだ。遠慮はあったが、女性二人とマスターの前で思い通り弾けなかったことが、やはり悔しかった。


「やあ、いらっしゃい」

とマスターが言った。

「先日はありがとうございました」

「今日も弾く?」

「もしよければ」

「構わないよ。飲み物は?」

「ええとビールで・・・。ピアノの後でもいいですか」

マスターが頷いた。


グランドピアノの前に座って重い蓋を上げる。バッハの平均律で指を慣らしてから、"枯葉"、"Someday My Prince Will Come"、"Fly Me to the Moon"を弾いた。締めに遊びでアニソンを少々。30分ほどで弾き終わる。のびのびと引くことができたのは、他に客がいなかったからかもしれない。クロスで鍵盤を丁寧に拭いて、ピアノを閉じる。ざっとピアノの表面を拭いてカウンターに戻る。

「もう終わり?」

とマスターがビールを出しながら軽口を叩いた。

「ネタ切れですね」と僕は笑ってコップにビールを注いだ。

「Fly meはなかなかカッコよかったよ」

「ありがとうございます」

迷惑に感じている様子はなさそうだ。サンドイッチを注文してビールを飲む。

19時過ぎてからちらほらと客が入ってきた。マスターに挨拶をして、カウンターが埋まらないうちに店を出る。青い夕暮れの中、猥雑なネオンが光るビルの間を歩いて池袋駅に向かう。ビールとクーラーで冷えた体に、生ぬるい空気が心地よかった。仕事を終えて飲み屋街に向かう人と、池袋駅に向かう人が入れ違う中、地下鉄に向かった。


研修が終わった。配属されたプロジェクトが良かったのか、幸いなことに残業は少ない。リモート勤務も増えて、出社は週に1、2回で済んだ。ピアノの練習時間が自然に確保できた。


夏の終わりにはレパートリーや"アドリブ"パターンも増えてきた。1時間は弾き続けることができるようになった。19時頃にはぼちぼちと客が入ってくる。僕の演奏を耳にする人も増えた。儀礼的な拍手をもらうこともあった。季節は9月になろうとしていたが、まだまだ暑い。僕はピアノを弾き終えて、スマホに課題をメモしならビールを飲んでいた。


「もう少し後の時間に来れない?」とマスターが僕に言った。

「はい。いいですけど」僕は少し考えて言った。19時から20時にかけてそこそこの客が入る。人がいた方が緊張感を持って演奏することができる。

マスターが頷いた。

「もう少しハギノくんの演奏を聞きたい、というお客さんが結構いてね」

僕は困って笑った。

「素人のヨレヨレ演奏ですけどね。その人、酔っ払てませんでした?」

嬉しいというより疑いの方が強い。

「違うと思うよ」とマスターが笑って言った。「ほら、下手うまってあるじゃない。ああいうやつだよね。下手だけど聞かせるってやつ」

「下手ってことです」と僕も笑う。

「言葉が悪かったね。マイルス・デイビスだってトランペットの技術がすごかったわけじゃないだろ」

「確かデビューの頃はディジー・ガレスビーに劣等感持ってましたね」

「チャーリー・パーカーが励ましたわけだ」

以前読んだ本を思い出した。

「確か、技術はいらない。ハートがあればいい、とか」

「それだよ」

「マイルスと比べられるのもどうかと思いますけど」

と僕はビールを啜った。

「すみませーん」

カウンターの別の客がマスターに声をかけた。マスターはニヤリと笑って僕の前を離れ、オーダーを確認に行った。


そんなふうにして、僕はここでピアノを弾くようになった。


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