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結局選んだのは「Someday My Prince Will Come」。なんとなく思い浮かんで、他の候補が出なかった。コード進行が特徴的なジャズワルツだ。割と難しい曲だけどそれなりに練習したからなんとかなるだろう。
イントロからテーマ部分はビル・エヴァンスのフレーズを借りた。学生時代に何度も練習・演奏したから覚えている。参考にした彼の演奏ではソロの部分は4拍子が混ざる。ピアノソロでは敷居が高い。全て3拍子通しにする。アドリブ部分のワンコーラスは学生時代の記憶で弾き切った。2コーラス目に入る直前に頭が真っ白になった。何も湧いてこない。アルペジオで登ってスケールで降りるだけの機械的動作で最初の4小節を乗り切る。その後も特に過去の蓄積やアイデアは出てこなかった。じわじわと冷や汗をかきながらBbメジャースケール通しの機械的”アドリブ”で弾き切り、エンディングで締めた。
演奏を終えて、練習が足りない!と天を仰ぐ。しかめ面を照れ笑いで上書きしてカウンターに戻った。冷や汗が止まらない。二人がパチパチと拍手していた。カウンターの奥、入り口寄りに客が一人増えていた。おそらく40代くらいの男性だ。黒っぽい服でキャップを目深にかぶっている。こちらをちらっと見てややおざなりに拍手をしてくれた。熱心な拍手じゃないのが却ってありがたい。会釈で応える。
「この曲知ってる」
「聞いたことあるね。なんだっけ」
「『いつかは王子様が』ですよ。白雪姫だっけ?」とマスター。後半は僕に向けて質問だ。
「だと思います」
確信はないまま話を合わせる。
「縁起がいいんだか悪いんだか」と奥の女性が笑った。
手前の女性が「これから私たち婚活パーティ」と言う。
そうですか、と僕は頷く。大学出たばかりの僕には婚活パーティのイメージはない。
「『いつかは王子様が』とかのんびりしてらんない。狩りに行かなきゃ」
「お姫様ってなんなんだろ。まったく」
「君、彼女いるの?」
手前の女性の眼光が一瞬鋭くなった。品定めされたのだろうか。学生臭さの抜けきらない社会人1年目。パッとしない若者が、百戦錬磨のアラサー女性の評価に耐えられるはずがない。鑑定には1秒もかからなかった。
「いや、いないです」
「またまた。誰にでもそう返すんでしょ」
「いや、ほんとです」
と笑って答える。お世辞か?高校から理系に進んだピアノオタクだ。彼女を作れるような機会自体、ほとんどなかった。
「さて、そろそろ行くか」
と奥の女性が時計を見ながら言った。
「ピアノありがとね。ビール一杯奢らせてよ」
「いえ、いいですよ。そんな」
僕は慌てて断る。
「ありがたく受け取っておきなさい。マスター、私たちのおごりで彼にビール一つ」
マスターは頷き、注文票に書き入れた。二人はスマホで決済し、僕に手を振った。
「ビールありがとうございます。パーティ頑張ってください」
薄暗い中、二人はニヤリと笑ったようだった。そのままバーの扉を押して階段に向かう。
二人の気配が消えてからマスターに聞いてみた。
「なんだか男前なお姉さんでしたね。ご常連ですか?」
マスターは少し考えて「月に1、2回かな」と言った。
「マスター、今日ライブじゃなかったよね」
40代のお客さんが僕の方とチラッと見ていった。
「話の流れでちょっと弾いてもらったんです」
「すみません、後半ボロボロでした」
「面白かったよ。スムースにアドリブ弾かれるとかえって興醒めだ」
おかしな感想だが、からかっているわけではなさそうだ。少し惨めな気分を上手くフォローしてくれた気がする。
残ったビールを飲み干してお勘定をお願いした。時刻は19時30分。
別れ際、マスターが「よかったらまた弾いてよ」と言ってくれる。お世辞かもしれないが、前向きに受け取った。「分かりました」と頷いてバーを出た。
その日から僕は真剣にピアノを練習し始めた。