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バーでピアノを弾き始めた時の話だ。
就職して最初の1ヶ月の研修期間中に、池袋のジャズバーに行ってみた。
大学のジャズ研で年に2度ほどジャズバーを借りてライブをしていた。うちわの発表会みたいなものである。四ツ谷や新宿など、いくつか行ったことがあるから雰囲気は知っている。学生の頃は、自分がいかにも子供っぽく感じて、どうにも落ち着かなかったものだ。社会人になったら、自分で稼いだ金で気兼ねなくビールを飲みたいと思っていた。「大人」への憧れってやつだ。
会社を定時で上がって池袋駅へ。広い駅構内を案内板を頼りに歩いて地上に抜ける。あらかじめ調べた道順を進む。その店は雑居ビルの地下にあった。上の階には居酒屋や飲食店が入っていて、ビルの脇には黄色や赤の派手な看板が見えた。着いた時には18時を少し過ぎていた。一階の入り口にドリンクメニューと「営業中」の札がかかっている。学生居酒屋と比べて少し高い。当たり前だと思う。ためらう価格ではなくてよかった。意を決して薄暗い階段を降りる。"C7"という看板のついた重い扉を押して中に入る。
"C7" シー・セブンス というのが店の名前だ。店内は薄暗くてほんの少しカビ臭かった。内装に凝っている様子はない。音楽も流れていなかった。扉を開けてすぐ、4、5人が囲める丸テーブルが二つ。そこからカウンターが奥まで広がっている。カウンターの反対側に二人がけの小さなテーブルが2つ。冷房の効きは弱い。奥にドラムセットとグランドピアノが見えた。
マスターがこちらを見て軽く頭を下げたので僕も会釈する。特に席は指定されない。緊張しながらカウンターの奥に座った。メニューを一通り眺める。
「瓶ビールお願いします」
マスターが頷く。ハートランドとグラス、ナッツの小皿が出た。40代半ばといったところか。気が弱そうな印象を受ける。強面でもハイテンションでもなくて、少し安心した。
ビールが美味い季節だ。グラスに注いだ分を一気に飲み干し、一息ついて店内を観察した。
細長い店の奥、目についたのがグランドピアノだ。ベージュに近い薄い茶色で、ほの暗い店内のアクセントになっている。その横にはYAMAHAのドラムセット。意外と、といったら失礼だが、遠目からはどちらも新しいように見えた。ピアノのロゴはカウンター席からは見えなかった。ライブスペースは狭くて、ベースと管楽器が二人も乗れば満員だろう。
「今日はライブやってないんですよ」
仕込みが一段落したらしく、マスターが僕に声をかけた。
「そうなんですね」
沈黙。
初対面の相手と流暢に会話するスキルはない。うっすらと冷や汗を感じて足に力が入る。時間を埋めるためにゆっくりビールをグラスに注ぐ。
「ジャズとかお好きなんですか?あの辺のCD選んでくれたらかけますよ」
とマスター。
「あ、はい。えーと、ちょっとピアノ見せていただいていいですか」
思わず言ってしまって後悔する。いきなり楽器見たい。その次は弾きたい、か。素人客が楽器を触ることを嫌がる店もある。迷惑客と思われたかもしれない。
「あ、ええと、綺麗なグランドピアノですよね。ロゴが見えないんで気になって。色も変わってますね。ヤマハですか?」
「カワイですよ。どうぞ見て下さい」
マスターは少し嬉しそうに答えた。
近寄って見るとピアノもドラムもそこそこ年季が入っている。大事に使われているのだ。鍵盤の上に確かにKAWAIというロゴが見えた。
「弾いてもいいですよ」
「あ、ありがとうございます」
弾いてみたい、という客が多いのだろう。マスターは特に気にしないようだ。他にお客さんもいない。僕も遠慮よりピアノへの興味が勝った。グランドピアノを触るは久しぶりだ。
蓋を開けて真ん中の”ド”を押してみる。重い、と思う。ただ重いのではなく、ハンマーとの連動を感じる。そういえばKAWAIのグランドピアノは初めてかもしれない。椅子に座って両手でCm9のアルペジオからCドリアンスケールを遅めに弾く。重く沈む鍵盤を確かめるように。小指と薬指の粒が揃わないのは気にしない。そのままバッハの平均律1巻、プレリュード2番を弾く。やはり生の音はいい。美しいピアノの響きの中に、底知れない深みと刺々しいノイズが隠れている。
続けて「枯葉」を弾く。テーマ部分はビル・エヴァンスのコピーだ。彼のアドリブは抽象的過ぎて好きじゃない。”アドリブ”のソロ部分は、他のプレーヤーのをコピーした。練習するうちに、リズムとシンコペーションが変わり、音が増えたり減ったり、ほとんどオリジナルになった。これを”アドリブ”=即興演奏と言ってよいのか。言えないかもしれない。アドリブだろうが仕込みだろうが手クセだろうが、一曲弾き切らないと話にならないのは間違いない。途中で一度リズムが崩れた。小さく顔を歪めてしまう。その後はリズムを整えて弾き切った。少し練習が甘かったと思う。人前で弾くことになろうとは。
最後に遊びで、最近ヒットしているアニソンを軽く弾いて蓋を閉めた。
パチパチと拍手が聞こえた。カウンターに女性客二人が増えている。僕より年上に見えた。アニソンを弾いたことを少し後悔した。照れ笑いしながら会釈する。直後に照れ笑いしたことを後悔している。かといってどういう表情が適切なのか分からない。
「いい音ですね。気持ちよかったです」
とマスターに礼を言った。
「鍵盤がしっかりしてるでしょ」
「はい。弾きごたえがあります」
「上手いよね。ジャズやってたんだ」
「ジャズ研にいました。途中ミスっちゃって」
「やっぱりアニソンとかもジャズっぽくやるの?」
女性客の手前の方が僕に声をかけた。5つほど席の間隔がある。濃いグレーのワンピース。髪型はセミロングでボリュームを出している。押しの強さを感じて思わず少しだけ身を引く。30代前半といったところだろう。若く見えるが僕より一回り上かもしれない。
「いや、まずやりませんね」
そういうの毛嫌いする奴が多いです。と思う。世間話としてはいささか不穏当な気がして黙る。
「ふーん。カッコいいと思うけどな」
「意外と難しいんです。コード進行がジャズ向けじゃないから」
「へえ」
あっさり会話を打ち切られた。興味を持たれても困るから少し安心する。
「ねえ、何かリクエストしてもいい?」
奥の女性客が僕の方を向いて言った。
「や、すみません。レパートリー少ないんで無理ですね」
「ジャズっぽいならなんでもいいんだけど」
マスターの方を見ると、促すように頷いていた。
「分かりました」
と言って、僕はKAWAIのピアノに向かった。何を弾こうか、と考えながら。
最後に遊びで、最近ヒットしているアニソンを軽く弾いて蓋を閉めた。
パチパチと拍手が聞こえた。カウンターに女性客二人が増えている。僕より年上に見えた。アニソンを弾いたことを少し後悔した。照れ笑いしながら会釈する。直後に照れ笑いしたことを後悔している。かといってどういう表情が適切なのか分からない。
「いい音ですね。気持ちよかったです」
とマスターに礼を言った。
「鍵盤がしっかりしてるでしょ」
「はい。弾きごたえがあります」
「上手いよね。ジャズやってたんだ」
「ジャズ研にいました。途中ミスっちゃって」
「やっぱりアニソンとかもジャズっぽくやるの?」
女性客の手前の方が僕に声をかけた。5つほど席の間隔がある。濃いグレーのワンピース。髪型はセミロングでボリュームを出している。押しの強さを感じて思わず少しだけ身を引く。30代前半といったところだろう。若く見えるが僕より一回り上かもしれない。
「いや、まずやりませんね」
そういうの毛嫌いする奴が多いです。と思う。世間話としてはいささか不穏当な気がして黙る。
「ふーん。カッコいいと思うけどな」
「意外と難しいんです。コード進行がジャズ向けじゃないから」
「へえ」
あっさり会話を打ち切られた。興味を持たれても困るから少し安心する。
「ねえ、何かリクエストしてもいい?」
奥の女性客が僕の方を向いて言った。
「や、すみません。レパートリー少ないんで無理ですね」
「ジャズっぽいならなんでもいいんだけど」
マスターの方を見ると、促すように頷いていた。
「分かりました」
と言って、僕はKAWAIのピアノに向かった。何を弾こうか、と考えながら。