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7時半にスマホのアラートで起床した。Tシャツが汗を吸ってしっとりしていた。少し窓を開けた外からは車の走行音や信号機の音声ガイド、隣の室外機の音も聞こえる。目を閉じると自転車のベルの音や子供の通学の声もかすかに聞こえる気がした。まだ扇風機でしのいでいるけど、そろそろ就寝中はクーラーを使うべきかもしれない。ぬるいシャワーを浴びて汗をながすとともに、体を冷やす。
お湯を沸かしてコーヒーを淹れる。お湯の温度は83℃前後だ。コーヒーの粉が泡立つ中、ゆっくりとお湯を注ぐ。砂糖を大さじいっぱいほど入れて混ぜる。MacにログインしてWebのニュースサイトを巡回しながらコーヒーを飲む。いつも同じ淹れ方なのに、いつも味が違う。ピアノに電源を入れて、バッハの平均律第1巻の楽譜を適当に開き、ゆっくりと弾く。
バッハの平均律には2つの問題があると思う。一つは、その単調さゆえに、集中できないまま雑な練習になってしまうこと。もう一つは集中して弾くとバッハの天才ぶりに呆れてうんざりしてしまうこと。作曲とオルガン演奏で無双する、異世界転生ストーリー。「また俺なにかやっちゃいました?」。それがバッハである。ただし、バッハも相当苦労したらしい。再評価され神格化されたのも没後である。人生はラノベではないのだ。
8時になったので、シリアルをスープカップに入れて牛乳をたっぷり注いだ。スマホを見ながらシリアルを流し込んで、朝食に集中した方がいい、と何度も思う。スープカップを水で流し、適当にバッハを弾くうちに8時45分になる。
会社貸与のPCを立ち上げて仮想環境にリモートアクセスし、一通りメッセージとメールをチェックする。特に急ぎの依頼はなくて安心する。今日はバーでピアノを弾く日だ。念のため会社の公開スケジュールで定時以降をブロックしておく。無視されることも多いが、気を遣ってくれる同僚・先輩もいる。
9時。業務開始メッセージを入れて仕事に取りかかる。
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ちょっとしたきっかけからバーでピアノを弾くようになったが、僕の本業はプログラマーである。社員数100名程の企業に就職して5年目。大学で情報処理を専攻していたし、趣味でも少しばかりプログラミングをしていたので、わりと早く仕事に慣れた。3年目の今は、リモートワークでも細かい進捗は求められていない。出社は週に1、2回。朝の満員電車に揺られているとリモートのありがたさが身に染みる。
先週、展開された設計書を読んで、いくつか質問をリーダーにメールしていた。その返事が昨日の定時過ぎに来ていた。想定通りの回答で安心する。開発ツールを起動してソースコードをチェックアウト、パタパタとプログラムを打ち込み、テストをする。テストが通ったらチェックイン。想定通りだからスムースだ。プログラムと一緒に納品する仕様書とテスト結果を整理する。午前中にバグの指摘や改善要望が入り、詳細を確認して引き取る。型通りのやりとりや、曖昧さを排除するための確認作業が多い。事務的なやり取り。コミュ障の僕でも負担は軽い。
昼休憩にはトーストと目玉焼きを作り、トマトを切った。牛乳で流し込み、2杯目のコーヒーを作る。13時まで、バズっているアニメのオープニングを聞いて、メロディを8小節ほど耳コピした。コード進行は前半 F Bb C Dmの繰り返し。サビの部分も難しくなさそうだ。2、3日中には全て楽譜に落とせるだろう。
リモートワーク当初は仕事以外のことはできるだけやらないようにしていたが、ずっとPCの画面をにらんで過ごすよりも、すきま時間にピアノを弾いたり、夕食の準備をしたり、別のことをした方が生産性はむしろ向上すると判断した。生活の質も向上する。
出社したところでタバコ呑みはタバコ休憩を取るし、同期とだべったり、スマホを眺めたり、ぼーっとしたりする。気分転換は必要なのだ。
午後も大した割り込みはなく、淡々と業務を済ませることができた。16時。全てのソースコードをチェックイン。テスト仕様書とテスト結果をプロジェクト共有フォルダに置いて、リーダーに完了報告を入れた。
メールやメッセージに反応できるようにモニターをピアノの近くに置く。アニソンの耳コピの残りに取り掛かる。人気のあるアニソンは若い客にウケる。重要なレパートリーだ。
17時30分。少し様子を見て業務終了連絡を入れた。会社の端末をシャットダウンし、アニソンの耳コピに取り掛かる。今日はジャズバーでピアノを弾く日だ。サビのコード進行と残り8小節を取れば、今日中に簡単なアレンジができるはずだ。