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水曜日に、いつも通り早めに店に入ってマスターと会話した。深月さんに事前に話を通しておくように言われていたのだ。
「先々週来てた女の子、覚えてます?」
「ピアノの上手い子?」
「その前です」
マスターがグラスを磨く手を一瞬止める。
「あの美女か」
「マスターと話がしたいそうです」
「オレと?」
少し首をひねった。
「ライブとか貸し切りの話かな?全然いいけど」
「そういうんじゃなくて動画撮影がどうとか」
「ふーん」
「今日来るみたいなんでお願いしますね」
ピアノを軽く弾いて指を慣らす。開店の15分前に深月さんからLINEが入った。
「彼女来たんで入れますね」
ドアを開けると彼女がにこやかに入ってきた。営業モードだろう。店が一瞬で明るくなった。
「お邪魔しまーす」
テンションが高い。
「いらっしゃい」
とマスター。
「話通してくれた?」
小さな声で僕に聞いた。
「君から話がある、とだけ」
頷いて彼女がマスターの前に立った。マスターがなんとなく身構えている。
「すみません、実はここでギノ君の演奏動画を撮ってYoutubeにアップしたいと思って」
マスターがちょっと考えて言った。
「ふーん。面白いね」
「店で撮影してもいいですか?」
「全然いいよ」
そんなことか、とマスターがグラスを拭き始めた。
「店名とか出さない方がいいですよね」
「そうだなあ。変にバズるとイヤだね。当面は店名なしで」
「炎上もバズりもないと思いますけどね。演奏する曲なんですけど、ジャズだけだとなかなか再生して貰えないと思うんですよね」
「だろうね」
「アニソン多めで行きたいな、と思ってて」
「その辺、君らの好きなようにすればいいよ。オレは場所を貸すだけでいい」
「ありがとうございます!三脚とか立てちゃいますけど・・・」
「そこはお客さんの邪魔にならないようにね」
「分かりました!じゃあギノちゃん、早速やってみよう!」
話が早い。マスターも全く迷惑そうではなかったので安心した。
「どうしたらいい?」
「とりあえず適当に弾いてて」
ピアノに座って先週耳コピしたアニソンを、アレンジを確認しながら繰り返し弾く。深月さんが僕のすぐ後ろで三脚を立て、何かごそごそしている。振り返ると小さなカメラを取り付けていた。角度を微調整している。手元と鍵盤を入れているようだ
「大丈夫?邪魔じゃない?」
肘を上げたり低音部に体をずらしてみる。
「うん。問題ない」
「こんなものかな。簡単に倒れるから、動くときは気をつけてね」
「マジか。了解」
次はステージの奥、僕の左手に三脚を立ててスマホをセットしている。
「はい。演奏続けて」
もう一曲弾く。こちらはすぐに角度が決まったようだ。
「僕の顔、バッチリ映ってない?」
「モザイクでも入れるわよ」
「モザイク・・・」
「編集の時に考える。顔は隠すよ」
「頼むよ」
会社は副業OKだったはずだが、バレないに越したことはない。それ以前に知り合いに見られたくはない。
「よし。録画開始。早速弾いてみようか」
深月さんが言った。
ゆっくり息を吐いて、先週耳コピしたアニソンを一曲弾いた。
OK。悪くない。ノーミスでリズムキープできた。
そのままもう一曲続ける。同じアニメのエンディングだ。
リズムが少しズレた。一瞬頭が飛んでしまったのだ。
一呼吸置いて同じ曲を繰り返す。問題なし。
無事に終わった。
「今日はこんなものかな」
と僕が言った。
「OK。多分大丈夫だと思うけど。確認してみるわ」
といいながら三脚を片付ける。開店時間を少々過ぎていた。慌てて入り口に向かおうとするとマスターが言った。
「オープンにしといたよ」
「すみません」
マスターが問題ないと手を振った。
「もう撮影終わったの?」
「はい」
深月さんがカウンターに座ってジンジャーエールを注文した。それからスマホの動画をチェックする。僕も隣に立って何となく動画をのぞき見た。
「なんだか慣れてるね」
「前にやったことあるからね。自分の演奏を録画してさ」
「凄いじゃん」
彼女が首を振った。
「頑張って3、4本アップしてみたけどね。プロの動画見てるうちに恥ずかしくなって辞めちゃった」
「動画のアドレス送って」
「絶対やだ」
「僕の演奏もプロに比べたらダメな気がするなあ」
彼女が笑った。
「君、プロみたいなもんだよ」
「そうかね」
ドアの鐘が鳴った。振り向くと比較的若いカップルが立っていた。マスターが「お好きな席へ」と声をかける。
「ピアノ弾かなきゃ」
と深月さんに言ってステージに戻る。試しにさっき弾いたアニソンをさらっと繰り返してみた。カップルに特に反応はなかった。"Fly Me To the Moon"を弾いた。ビージー・アデールの演奏がベースだ。ところどころ音を減らしてある。そうでもしないととてもノーミスでは弾けない。即興のジャズというより、ジャズっぽく綿密に作り込んだピアノ作品だ。心地よいBGM。弾いて楽しい。
深月さんの拍手につられてカップルから少し拍手があった。会話が弾んでいる。熱心に聞いている様子はない。OK。通常営業だ。練習の延長のつもりでいつものレパートリーを弾いた。といっても決して手を抜いているわけではない。僕自身も楽しみながら演奏する。。
深月さんはジンジャーエールを飲み干すと、軽くマスターと会話を交わし、僕に手を振って店を出た。少しがっかりする。もう少し話をしたかったなあと思う。
後はいつも通り、ジャズのスタンダードを繰り返した。疲れたらバラード。集中力が戻ったらハイテンポの曲に戻る。客がぼちぼち入って、ちらほらと抜けていく。リクエストを受けて弾くと、運が良ければチップかビールをおごってもらえる。後半、客に酔いが回った様子を見て、ちょっとしたいたずら心でアニソンを挿入する。思った通り反応はない。再びジャズに戻り、22時前にその日の演奏を終える。
皿を洗っていると20時から入ったバイトの子が話しかけてきた。
「美人の彼女さん来たんですって?」
「彼女ではないかな」
「じゃあ、友だち?」
「まあそんなところ。楽器の練習友だち」
「いいなあ。青春だ」
「いやいや君こそ青春まっさかりでしょうが」
「それがそうでもないんですよね。あ~あ」
二十歳そこそこ、大学生活を謳歌しているはずの女の子が、疲れました風にため息をついてみせた。
「そういえば途中なんかジャズ以外弾いてましたね。聴いたことあるような」
「アニソンだよ。今季のラブコメのエンディング」
彼女がうなずく。
「だからか」
作曲・ボーカルユニットの名前を伝えた。
「そうだったんですか?結構好きな歌い手なんですけど。知らなかった」
「意外といい曲だよね」
「意外じゃないですよ。当然ですよ」
マスターに帰る合図をした。本日は2,000円の出演料だった。
「悪いね。バイト代もあるからさ」
「問題ないですよ。今日はチップもあったし」
マスターがサムズアップをする。僕は目のあったお客さんにお辞儀をしてから店を出た。




