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木曜の昼休みの時間、深月さんから早速LINEが入った。僕はすぐに返答した。
「無事日本に戻りました。早速だけど今週末空いてる?」
「中国お疲れでした。土日ともに予定なしです」
「ジャズの練習に付き合ってもらっていい?」
ちょっと頭をひねる。
「OK。ピアノでバッキング担当ってことね」
「ありがとう!!スタジオ予約したら連絡するね。」
窓際に行って背伸びをして窓を開けた。梅雨の厚ぼったい雲が空を覆っている。気分はとても良かった。夕方にLINEに場所と時間の連絡が来た。場所は池袋のスタジオ現地で、10時待ち合わせ。了解、と返す。
当日、湿度は高いが暑いというほどでもなかった。池袋は相変わらず混雑していた。Keenのサンダルに焦げ茶色のゆったりしたパンツ。麻のベージュの長袖シャツを選んだ。パンツは無印良品。シャツは手織りのちょっと高いやつだ。土曜9時50分に池袋のスタジオに到着した。深月さんは受付の前のテーブルに座ってスマホを眺めていた。髪を後ろに縛り、前髪は両脇に流している。白のTシャツに紺色の薄手のジップパーカー。僕が手を挙げると彼女も小さく手を振った。足元にはテナーサックスの大きなケースがあった。
「中国は出張で?」
彼女の前に座りながら聞いた。
「うん。ウチの工作機械が結構売れてるのよ。中国出張のトラブルも聞くからもうリモートでいいよね、っていう話も出てるんだけど、営業の偉い人が対面にこだわっててさ。面倒くさいよね」
「あっちはスマホ使えないの?」
「ローミングすれば使えるんだけど、監視されている気もするし、VPNとか?設定するのも面倒くさいからね。中国出張の時は社用スマホだけ。自分のスマホ一切使わないのも快適だよ。LINE返信が遅れてゴメンね。事前に連絡すればよかったかな」
「何か気に障ること言ったかな、とか事故でもあった、とか考えたりはした」
「心配させてごめんね」
彼女が笑った。
「LINE交換していきなり『スマホ見られない』と言われてもそれはそれで混乱するから仕方ないよ」
二人でスマホの時計を見た。10時だ。
「そろそろ行こう。場所はこっち」とテナーサックスを重そうに持ち上げて階段に向かう。僕が後から上る。彼女のくるぶしからヒップラインが目に入ってしまう。サンダルに黒の細身のパンツ。僕は下に目をそらした。
彼女が分厚い扉を体で押して中に入る。アップライトピアノが置いてあるだけの狭い部屋だった。彼女が譜面立てを組み立て、バッグから楽譜を取り出して開いた。サックスのケースを開け、リードを取り出して咥える。サックスを組み立てている間、僕はピアノの感触を確かめた。さすがにグランドピアノより軽いがエレキピアノより断然マシだ。"Confirmation"や"枯れ葉"をざっと弾いて指を馴らす。深月さんは軽くスケールを上下してから「Aお願い」と言った。"ラ"を何度か叩く。彼女がAを吹きながらマウスを握って調整した。
「さて、何からやろうか」
「1曲目はコンファメで」
セッション定番のイントロを弾いてみせる。
「テンポはこのくらい?」
うなきながらマウスピースをくわえた。僕はそのままイントロを弾き続けた。彼女が体でリズムを取りテナーを揺らしてメロディに入った。上手い。正確だ。音もカッコいい。本来はアルトサックスの軽やかな曲だが、テナーだと小回りがきかない。タフな感じの曲になる。
テナーを聞きながら気持ちよく頭を振った。テーマが終わってアドリブパートに入る。徐々にサックスから自信が失われていった。フレーズに迷いはないからアドリブではなく仕込みだろう。まだ自分のものになっていないのだ。2コーラス目。楽譜を見ながらパーカーのコピーフレーズ。舞い上がるような軽々したパーカー節はテナーでは難しい。堂々と吹けば問題ないはずだが、自信を伴わないから惜しい感じになっている。何とか2コーラス吹ききった。彼女を見て「よかった」という風にうなずいてみせた。彼女が少し困ったような顔をしながらテナーを抱えた。納得していないのだ。今度は僕がピアノでワンコーラスアドリブを取る。終わり際に目配せをする。彼女がマウスピースをくわえて息を吸い、メロディを引き取る。テーマの演奏は全く問題ない。
「なかなかだね」
と僕は言って拍手をした。
「全然ダメ。もう少し吹けると思ったんだけどな」
僕は言葉を選んだ。
「全然上手いじゃない」
「うーん、ギノ君とはレベルが違ったかなあ。練習に付き合わせてなんだか申し訳ない」
そんなことはない、と否定した。嘘ではない。僕も勉強になる。
「リズムとカウントはしっかりしてる。ロストもしてないでしょ。後は勢いだけだよ」
「そう?」
「うん。僕も人の演奏を聴きながら弾くのはいい訓練になるみたいだ」
「ほんと?ならいっか」
「次は何にする?」
「じゃあ"Just Friends"」
「了解」
曲は知っているが弾いたことはない。黒本のページもほぼ初見だった。最後の8小節でイントロを作ってテーマを譲る。"Confirmation"よりもゆったりしてテナーサックスが似合う曲だ。テナーサックスがメロディを優しく歌う。アドリブもゆったりして雰囲気が出ている。自信満々に吹かないところにかえって繊細な味が出た。
「いいアドリブだった」
彼女は嬉しそうにニコッと笑った。
「吹きやすいからこの曲好き」
合間に感想を言ったり、雑談をしながら練習していると2時間はあっという間だった。