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ケルンコンサートの四曲目をここC7で演奏するのは初めてだ。とても美しい曲だ。僕はふつう音楽に視覚的情景を重ねるようなことはしない。抽象的な構造として解釈し、楽しむ。でもこの曲は特別だ。聞いているとどうしても北欧の山あいの湖や雪をかぶった山、白樺の木立が目に浮かんでしまう。言葉にしてしまうと陳腐だが美しさにかわりはない。それから幸福だけどどこか満たされない切ない感情もあわせてわき上がる。この曲が流れるだけで空気が変わる。


コード進行はジャズやロックの一般的なそれと一線を画している。大衆音楽のさして長くはない歴史を振り返っても、"斬新な"コード進行など存在しないはずだ。それなのにこの曲のサウンドからは独創性すら感じる。クラシックでもない。ムードピアノでもない。半音や長4度進行を多用してなだれ込むベースラインすらも美しく聞こえてしまう。


弾き始めてすぐに松川さんと野上さんが会話を止めたのが分かった。音楽が彼女たちの心に届いている。この曲は本当に特別だ。ただ心地よいだけではない。何かを揺さぶる力がある。


最後のルバートをそのままコピーしてもつまらないので短く刈り込んで演奏を終えた。いつものサロン・ジャズに戻る。"There Will Never Be Another You"。"酒とバラの日々"。"Misty"。"My Foolish Heart"。"Have You Met Miss Johns?"など。4,50分ほど弾いて席に戻った。


「最初の曲いいね。キースジャレットだっけ?」

と松川さんが言った

「ケルンコンサートです。最高のアルバムですよ」

「サブスクにあるかな」

「確かあった気がします」

「昔は『こんなのジャズじゃない』とか『ほんとにアドリブなのか?』みたいな批判もあったんだよね」

とマスター。

「意味のない批判っすね。ジャズって何だよ。という話で」

「これ、どこまで即興なんでしょうか?」

小倉さんも話に加わわる。

「うーん。ほんとのところは分からないよね。さっき弾いた曲はアルバム最後の4曲目だ。中盤まで綺麗にまとまっているからアドリブ感は薄いけど、ラストのルバートは完全にアドリブだと思う。アルバムの1~3曲目はアイデアを検討しながら演奏してるように聞こえる。さすがにざっくりの展開とかコード進行は決めてるだろう。それ以外、どの程度アドリブなのかは、キースが桁違いのピアニストだから何とも言えないね。全体の緊張感はクラシックのコンサートと全然違う。クラシックの即興演奏とも違う。そういう意味ではやっぱりこれがアドリブ演奏独特の雰囲気なんじゃないかな」

「え?クラシックの即興演奏?そんなのもあるんですか?」

「ブレンデルだったかルビンシュタインだったかな。学生の頃に聞いたことがある。どこからどう見てもクラシックだった。キースのより全然予定調和な感じでまとまってた」

動画サイトでたどり着いたんだっけ。それともジャズ研のマニアックな先輩がCD貸してくれたんだっけ。綺麗な「即興演奏」だった。


客がぼちぼち増えてきた。ピアノを弾かなきゃと思って席を立つ。小倉さんが「あ、今日もありがとうございました。勉強になりました」と言いながらぺこりと頭を下げる。

「勉強はどうか知らないけど、こちらこそありがとうございました。また来て下さい」

マスターが金額を書いた紙を渡した。レジで彼女が支払った後、ピアノに座る僕にもう一度会釈をして店を出た。


「ちょっとこっちに来なさいよ」

ピアノを弾き終えた僕を松川さんが呼んだ。

「何ですかね」

嫌な感じだ。

「最近モテて調子に乗ってるって?」

少々酔っている目が若干据わっている。

「先週も美女と入ってきたんだよな」

マスターが煽った。

「モテてるわけじゃないっすね」

僕は冷静に答える。

「ジャズピアノの練習方法を聞きに来たみたいです。彼女、僕より上手いですよ」

「かわいい子だったわね」

そうそう。と連れの野上さんもニヤニヤうなずいた。

「モテ期ってやつだな」

とマスターが言った後、他の客に呼ばれて注文を取りに行った。

「そこに座りなさい」

と松川さんが隣の席を指差す。よい雰囲気ではない。「あ、すみません、僕ピアノがあるんで」と断った。松川さんは僕をにらんだ。

「若いっていいわねえ」

といって野上さんがケラケラと笑った。

その後、22時までだらだらとピアノを弾いて松川さんをやり過ごし、無事に帰宅することができた。


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