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水曜日。いつものようにC7に演奏に行った。開店の30分まえに到着し、軽く演奏して指を温める。19時になったら入り口の札を裏返して「OPEN」にする。


今日も開店を待っている客がいた。水色のポロシャツにグレーのロングスカートの若い女の子だ。見覚えがあった。前に僕が熱弁を振るってしまった子。音大生だったっけ?

「ああ、いらっしゃい。この間はどうも」と声を掛けて迎え入れる。彼女が小さく会釈して店に入った。後ろから見える服にほとんどシワはなくて、隙のない印象を受けた。


「いらっしゃい。空いてる席どうぞ」とマスターが言った。彼女がカウンターの奥に進んで、ぎこちなく椅子を引いて座った。ピアノに向かう前に一応声を掛ける。気の効いた言葉は思いつかない。

「先日はどうも失礼しました」と言いながら、我ながら雑な挨拶だと思う。おじさんみたいだ。マスターが後ろ手を組んで何となくこちらを見ている。

「いえ、こちらこそ。勉強になりました」

「勉強?」

少し驚いてしまう。

「はい。私もジャズピアノの練習してるんだけど、練習方法に確信が持てなくて。ギノさんと話をして何となくイメージできたんです」

「それは良かった。・・・っていうか僕、そんな有益な話しましたっけ」

彼女はうんうん、とうなずいた。一方的に喋ってしまったと後悔していたのだが、僕のピアノオタク・トークから何かを得たのなら結構な話だ。ふと、膝の上に抱えたトートバックの中に紙の束が見えた。

「それ楽譜?」

「そうです」

言いながら彼女が紙を取り出す。僕は入り口を見た。まだ客が入ってくる気配はない。座って目を通す。

「枯れ葉。ビルエヴァンスだ」

「はい」

「耳コピ?」

「さすがにそれは。ネットにあったのを印刷しました」

僕はうなずく。ジャズの名演奏を楽譜に落としたものがよくネットに転がっている。公式情報ではなく学生やセミプロが勉強のついでに公開するパターンが多いようだ。普通に考えたら法的にはNGな気がする。でもジャズの楽譜を出版したって儲からないから売っていない。コアなファンや学生のために黙認しているのだろう。

「良かったら弾いてみる?」

彼女が強ばった笑顔を作る。

「今ですか?いやいやまさか!」と手を振った。

「人前で弾かないと上手くならないでしょう」

また余計なことを言ってしまった。僕の嫌いな体育会系の発言。しかも上から目線だ。

「今言われても弾けませんよ」

しつこいのもよくない。引き下がろうとしたが、彼女の目を見たら本当に嫌がっているわけではないと感じた。ピアノが上手いなら人前で弾くことをそこまで避けるはずがない。楽譜を持ってきたのも多少なりとも演奏する意思があったからじゃないか。

「僕だってマスターに言われて弾いたんだよね。マスタ-、ちょっと彼女に弾いてもらっていいですよね?」

「もちろん」

とマスターが答えた。

彼女が意を決したように立ち上がった。

「じゃあ、弾いてみます」

楽譜を持ってピアノに向かう。グランドピアノの譜面立ては寝かせたまま4、5枚を広げた。椅子を調整して座り、姿勢を正す。鍵盤に腕を伸ばして息を吸って、一気に弾き始めた。


ビルエヴァンスの「枯れ葉」のイントロは特徴的だ。ガラスの塊から削り出したような鋭いフレーズが連なる。何度聞いてもよくこれを思いついたものだと感心する。アドリブラインは神経質で前のめり、かつドライだ。ビルエヴァンスのアドリブの濃密さは他で聞かない。きっちりと彼女が名演を再現していく。


やはり彼女の腕前は確かだった。幼少からクラシックピアノに取り組んだことが伝わる。タッチは正確。テンポもぴしゃりと決まっている。それでも本家の演奏よりはマイルドに感じた。ペダルは多めにつかって全体の雰囲気を柔らかく、なめらかにしている。あまりジャズっぽくはないな、と思う。クラシック演奏のようだ。


アドリブの3コーラス目はビルエヴァンスのコピーではなく、オリジナルのフレーズを入れ込んできた。いささかセンチメンタルで間延びしているけれど、僕は気に入った。ワンコーラスアドリブを作るのも簡単ではない。思わず「偉い!」と呟いてしまう。


演奏が終わって彼女がぺこりと挨拶をした。大したものだ。表情は緊張して満足はしていない様子だった。これと分かるミスタッチはなかった。拍手をして迎える。マスターもニコニコと拍手をしていたが、表情からあまり気に入らなかったのが読み取れた。付き合いが長いから分かる。正確な演奏はマスターの好みではない。


演奏の終わり頃に松川さんが入ってきた。僕のワードローブを改善してくれたお姉さんだ。目を合わせてちょっと深めにお辞儀をする。

「いらっしゃい。今日は早いね」とマスターが声を掛けた。彼女がカウンターの僕を見て「今日はギノ君じゃないの?」と言った。

「ギノのガールフレンドだって」

「いや、違います」

また適当なことを言う。慌てて訂正する。

「最近モテ期なんだよな」

「へえ」と松川さんがニヤニヤして僕を見た。

「違いますって。勘弁してくださいよ」

僕はマスターをにらんで言った。


彼女がカウンターに戻った。松川さんの方をチラリと見て少し会釈する。

「こちらご常連の松川さん」

松川さんに紹介しようとして名前を覚えていないことに気が付く。

「えーと、ゴメン、お名前って」

「小倉です」

彼女が答えた。ほんの一瞬憮然とした様子が見えた。連絡先を交換してないんだから仕方ないじゃないか。

「小倉さん。僕より全然上手い」

「そんなことないです」

と小倉さんが答えてぶんぶんと首を振った。技術は間違いなく彼女の方が上だった。謙遜なのか育ちがいいのか。松川さんは拍手をした。嫌味のない社交辞令といったところだ。


今日は僕のライブということになっている。ピアノに向かおうとすると松川さんから「サムデイ弾いてよ」と声が掛かる。"Someday My Prince Will Come"。松川さんの定番曲になってしまった。未婚アラサーの女性に「いつかは王子様が」というのも生々しい気もするが、お互い特に含みはない。ただの美しいジャズ・スタンダードだ。


アドリブを組むのが難しい曲だ。コード進行がカラフルで三拍子。展開が早いのでたっぷっりとしたフレーズが作りにくい。断片的になりがちなのだ。松川さんのおかげでアドリブパターンのストックがいくつもある。


その他のジャズスタンダードを30分ほど弾いた。アニソンは弾かなかった。席に戻る。松川さんの隣には友人の野上さんが座っていた。二人で僕を見てサムズアップをする。


小倉さんはコーヒーを飲みながらチーズケーキを少しずつ食べていた。僕が戻ると慌てて小さく拍手をした。

「私もギノさんくらい弾ければなあ」

「君の方が上手いよ」

彼女が目をつぶって首を振った。確かに彼女の演奏は技術的には完成度は高い。いきなり人前で弾いてしかもノーミスとは大したものだ。僕だったらミスタッチしておかしくない。でも、人を心地よくさせる演奏ではないと感じた。売り方次第ではプロの演奏として通用するだろう。若くて華があるからな。などと思わず考えてしまった自分に少しうんざりしてマスターにビールを頼んだ。


「私も上手くなりたいです。譜面なしでたくさん弾けるようになりたい」

FAQだ。返答はストックしてある。

「ベースラインを覚えれば弾けるよ。何ならベースとメロディだけで十分だし」

分かってはいるんですけどね、という風に彼女は小さくうなずいた。

「ほら。これ」

と僕は紙を取り出した。

「キース・ジャレットの『ケルンコンサート』の4曲目。左手だけの楽譜。なかなか覚えられないから左だけ紙に落としてみた」

「なるほど。こういうやり方もあるんですね」

「まあ、キースは別格だよね。彼の曲じゃなければここまでやらなくても覚えられると思う」


小倉さんと会話している僕をマスターと松川さんたちがこちらをチラチラ見ていた。「あいつ、調子に乗ってる?」などと聞こえたような気がする。またろくでもないことを話してるに違いないと思いながら、僕は再びピアノに向かった。


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