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家に帰ってシャワーを浴び、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。ちびちびビールを飲みながら演奏中に考えたことをスマホにメモした。ジブリの曲を少なくともあと2つ仕上げる。アニソンのレパートリーを増やす。他には・・・。そんなものか。やりたいことが多すぎても仕上げるのに時間がかかる。まずはアニソン。ノートPCを立ち上げてビールを飲みながら今季のアニメをリストアップし、動画配信サイトでオープニングとエンディングを確認してみた。思った通りだ。ピアノでは弾きにくい曲が多い。コードとメロディーがシンプルで、リズムが激しい。ノリで押し切ってるような曲だ。それでもいくつか候補をピックアップしてブックマークした。
一つ悪くない曲があった。コード進行が複雑でメロディアスだ。ピアノに座って楽譜作成ソフトを開いた。冒頭8小節のメロディとコードを採って、軽くアレンジしてみる。導入は打ち込みピアノ音のアルペジオ。美しい曲だ。
アニメの人気はそこそこのようで、この曲もさほど盛り上がってはいない。どんなによい曲でも肝心のアニメの人気が出なければあっさり消えてしまう。逆もまたしかり。話題のアニメの話題の曲が必ずしも優れているわけではない。
酔いのせいで指がもつれてきた。ピアノを弾くのを止めてブラウザを起動し、アニメ配信サイトに接続した。心が乱れないように日常系アニメを選ぶ。ビールをちびちび飲みながら、モニターを眺める。何かのセリフに触発されて深月さんとの会話を思い出し、反芻する。なぜ、何曲もそらで弾けるのか。ベースラインを覚えれば弾ける、と答えた。嘘ではない。ドファ♭シ♭ミラレソ※。ただベースラインを暗記したところで曲は弾けない。トニック(主音)※は何か。トニックが分かればスケールが分かる。スケールが分かればコードが分かる※。それから着地点の把握。転調の有無。サブドミ※などの仕掛け。メロディを支える曲の構造だ。ベースラインを理解すると同時に曲を理解する。だから弾ける。それでも難しいフレーズやバッキングは指に覚え込ませる必要がある。
指に覚え込ませただけでも弾けないわけでもないが、僕の場合、かなりの練習量が必要になる。うんざりするほど反復練習しないと、何かの拍子に頭が真っ白になり指が止まってしまう。ミスをしても柔軟に対応できない。曲の構造が分かっていれば、そしてそれがジャズなら、誤魔化せる。クラシックの奏者がショパンの難曲をいくつも暗譜しているのは神業だ。
酒の席でこんな面倒なことを説明できるはずがない。早口で一方的に話しても引かれるだけだ。「ベースラインが分かれば弾ける」。簡潔で明快だ。分かりやすい。実際にはピアノを弾くことは簡単でもわかりやすくもない。
バーでの会話を振り返りながら、いつもよりも暖かい気分で過ごしていることに気がつく。孤独じゃないんだ、と思う。今まで、孤独だったのだ。あまりに日常に孤独がなじんでいて気がつかなかった。深月さんに彼氏がいるかどうかはともかく、友人にはなれるだろう。社会人になってから同世代の友人ができるのはうれしいものだ。よし。よい一日の振り返りだ。これで心やすく眠ることができる。シャワーを浴びてビールの酔いをさまし、歯を磨いてベッドに潜り込んだ。
※ ドファ♭シ♭ミラレソ ジャムセッションの定番「枯葉」Aパートのベースライン
※ トニック CメジャーならC。曲の途中や最後でここに着地することが多い。
※ スケールが分かればコードが分かる ベース音がCだとして、CメジャースケールならC^7。BbメジャーならCm。「枯れ葉」はGマイナー(Bbメジャー)なのでCmになる。
※ サブドミ サブドミナント。曲の展開パターンの一つ。4度マイナ-、♭7度セブンスなどがある。




