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名刺に書いてあったのは知らない会社名だった。もちろん、僕の知らない優良企業はいくらでもある。「営業担当 深月藍 mizuki ai」とあった。メールアドレスと携帯電話が書いてある。当然仕事の連絡先だ。
「深月さん」
「藍でいいわ」
「・・・。ムリっすね。深月さん、で」
「ま、それでいいわ」
「僕の名刺は会社に置きっぱなしだな。リモートメインのプログラマだから使う機会がない。全然減らない」
「へー。プログラマなんだ。なんか納得だわ。ピアノ演奏用の名刺でも作ったら?」
なるほど。SNSの交換よりいいかもしれない。
「いい考えかもね」
「じゃあ作ったら最初にちょうだい。一応LINE交換しておこうよ」
同世代、しかもジャズを勉強している女子とシラフでつながるのは素直に嬉しかった。
マスターがチラチラと僕を見ていた。店の時計を見る。そろそろピアノに戻らなければ。席を立つとカウンター席のアラフィフ女性から「リクエストしてもいい?」と声が掛かった。
「はい。弾ける曲なら」
「じゃあ、ジブリの曲で。どれでも」
「ジャズ的アレンジとかできないですけど」
女性がそれでいいという風に頷いた。
ピアノに座り、頭の中でジブリの曲を棚卸してみた。コード進行と左手の大体の動きを記憶してるのが3曲。iPadにも楽譜は入っていて、時々暇つぶしに弾いている。しかし十分に弾き込んでない。人前で披露するのはためらわれた。結局、深月さんのリクエストで演奏した最初の3曲をそのまま繰り返した。弾きながらもう少しジブリやアニソンのレパートリーを増やそうと思う。
リクエストしたカップルが嬉しそうに拍手してくれた。微笑んでピアノ越しにお辞儀をした。マスターが深月さんに何か話をして、彼女が笑っている。僕をネタにしているのだろう。他に共通の話題はない。ロクでもない話のような気がしてくる。あえて気にせずピアノに集中した。ミスタッチするわけにはいかない。「Confirmation」「Fly Me To the Moon」。アドリブラインは基本的には同じアイデアを使い回ししながら、意識して日々バリエーションを加える。フレーズの最初の音を変えたり、最後の音を変えてみたり。弾くたびに新しいアイデアが出るわけではない。変奏曲のようなものだ。アドリブに疲れたらバラードに移る。メロディを少しフェイクしてゆったりとメロディを弾く。客はぼちぼちといったところだ。どこかで飲んでから来るパターンが多い。特に熱心に聞いている人はいない。40分ほど弾いて休憩のためカウンターに戻った。
「ギノちゃん、モテるんだって?」
深月さんがニヤニヤして言った。
僕はマスターを睨んだ。彼はしかつめらしい顔をしながら拳銃に見立てた指を僕に向けた。
「勘弁して下さいよ。どうして僕がモテるんですか」
「しょっちゅう女の子に話しかけられてるだろ」
「酔っ払いばかりじゃないですか。それに"しょっちゅう"じゃない」
「そういうことだよ」
「何言ってるんすか」
「やっぱモテるんだ」
「いや、そうじゃなくて。酔っ払ったお客さんが何か喋ってガハハって帰っていくだけだよ」
うっかりジャズピアノを熱く語って引かれることもあるし。
「連絡先とか交換しまくってるよね」
マスターが余計なことを言う。
「だから相手は酔っ払いで」
マスターがニヤリとして僕を指差した。面倒くさいおっさんだ。心なしか彼女の表情が虚無になっている気がした。僕は小さくため息をつく。若い女の子の前で調子に乗っているのだ。
「連絡先ってかSNS交換してもさ、別に何かあるわけじゃないから。ってか、今も誰ともやり取りしてないというか」
と彼女に言い訳する。
「そう?」
「そうだよ。いいね!したところで、何も反応ないし」
「下心が見えるわ」
「もう勘弁して。最近はほとんどSNSも見なくなったし」
「あー私もだわ。SNS面倒くさいよね」
からかうのにも飽きたらしい。ようやく話題を変えてくれた。
「そういえば最初にアニソン弾いてたじゃん。アニメとか見てるの?」
マスターも離れて他の客の対応を始めた。
「まあね。ご飯食べる時とか」
「あー、そうなるよね」
彼女は特に集中的にアニメを見ているわけではなく、アマプラで適当に見ているだけらしい。僕の方がよほどしっかり見ている。これまた深堀りするのは危険な話題だ。軽く好きなアニメやマンガ、今季のアニメの感想を交換して再びピアノに戻った。少なくとも9時までは演奏することになっているのだ。
別の客からまたジブリのリクエストを受けた。さすがに同じ曲はできない。酒も入っているようだし大丈夫だろう。iPadに入っていた楽譜で2曲弾いた。何ヶ所か怪しかった左手を、なんとか誤魔化した。次週までに仕上げようと思う。リクエストした客も途中から談笑を始めていた。酔っ払い相手に弾くというのはこういうことだ。僕としてはむしろ演奏に集中できてありがたい。ジブリを弾き終えてからボサノバを遅めに一曲。これでさらに観客の注意が逸れる。"Waltz For Debby"。難しい曲だ。次。誰も聞いてないことをチラッと確認して"Tell Me a Bedtime Story"。ソロでは難しい曲だ。まだ僕なりの構成ができていない。左手だけで弾いてみたり、アドリブを試行錯誤してみたり。21時になったのを確認してピアノから立ち上がる。パラパラと拍手が上がる。皆さんほぼ聞いてなかったですよね。と思いながら自然に微笑みが出た。そのままお辞儀をして、カウンターに戻った。
彼女が拍手で迎えてくれた。
「よかったわ」
「ありがとう」
「マスターもギノちゃんのこと褒めてた。『味がある』だってさ」
「テクニックがない人への最高の褒め言葉だ」
「あのくらい弾ければ十分でしょうに」
「まあ、上を見ればキリがないってやつだよ」
「これで演奏は終わり?」
「そう。あとは片付けとか皿洗いを手伝うだけ。いつもは10時過ぎには店を出てるね」
彼女がスマホをチェックした。
「私もそろそろ帰ろうかしら」
ちょっと喉が詰まった。こわばったかもしれない表情を持ち直す。もう少し話したいと思う。でも会話を続けるきっかけがない。別の場所に飲みに誘うとか、一緒に店を出ると提案するか。誘う方法が分からないのもそうだが、誘っていいのか判断ができない。
手詰まりだ。僕は諦めてうなずいた。
彼女は一息いれて「よしっ」と席を立った。
マスターが金額を伝え、彼女が支払った。
「今日はありがとう。また連絡するよ」
と僕が言う。
彼女が微笑んで、手を振って店を出た。
皿を洗う僕にマスターが寄って来た。
「ギノちゃん、やるじゃない。そうか。ようやく彼女ができたか」
「ついこの間知り合ったんですよ。そんなんじゃないですから」
「すごい美人だよね」
「いや、まあ」
メイクと服装のせいですよ。と思っても口からは出さない。マスターが呼ばれてカウンターの奥に向かった。
今日はアルバイトの女の子がいない。皿を洗ってシンクを空けた後、客席を回って空いた皿やグラスを回収した。酔っ払いが僕のピアノを適当に褒める。いやあ、良かったよ。とか何とか。礼を言いながら戻り、再び皿を洗い、手を拭いてマスターに小さく手を振った。上がりの合図だ。マスターが寄って来てレジを開け、札を何枚か僕に渡した。
「悪いね。今日の売上がこれだから」
と薄い伝票の束に目をやった。
「大丈夫です。むしろもらっちゃっていいんですか」と僕は答える。プライドが保てればいい。
「そのくらいは出せるさ。また来週も頼むよ」
「了解です。じゃ、失礼します」
僕は店を出た。池袋の歓楽街はいつもと違った親密な雰囲気がした。女性と話しただけでこれほど気持ちが明るくなるとは。我ながらちょろいもんだなあと思う。駅に向かって歩きながら嫌な感覚も湧き上がる。深月さんにすでに付き合ってる男がいたら?と考えただけで、ニヤけた気分が一気に冷める。いても全然不思議ではない。そこに僕の選択肢はない。果たして彼氏がいるのか。あるいはいないのか。暖かい気分といつもの孤独。二つの世界をさまよいながら僕は家に帰った。