13
水曜日。18時30分少し前に"C7"に着いた。扉には「CLOSE」の札がかかっている。カウンターの奥で食材の片付けをしているマスターに、よろしくお願いしますと声をかけて店の奥に進み、ピアノに座った。楽譜とiPadをピアノに載せる。先日耳コピしたアニソンをコード進行のアレンジを試しながら弾いて指を温める。18時57分になったので、マスターに「店、開けます」と声をかけて入り口に向かった。
ドアを開くと脇に女性が立ってスマホを眺めていた。タイトなブルージーンズに白のブラウス。ヒールのある黒のサンダル。セミロングの髪をゆるく後ろで止めている。綺麗な人だな、と思った次の瞬間「ああ」と声が出た。Nothing Elseでカウターに立っていた子だ。
「いらっしゃい」
「どうも」
といって彼女は中に入った。
ドアの札を「OPEN」に返して僕もピアノに向かう。
「お好きな席にどうぞ」とマスターが彼女に言った。カウンターのピアノに近い席に座ろうとする彼女を見て、こんなに美人だったっけ?と思う。メイクとファッションのせいだろうか。
目が合ってしまった。
「えっと、どうも。何かリクエストある?」
誤魔化したつもりだが挙動不審になっていたかもしれない。彼女はにっこり笑って言った。
「さっき弾いてたの知ってる。ラブコメアニメのオープニングでしょ?ちゃんと聞きたいかも」
ジャズバーでアニソンが流れていると、不愉快に思う人がいるかもしれない。大学のジャズ研にはJPOPやアニソンを忌み嫌う部員が何人もいた。理由はよく分からない。でも、平日の開店早々で他に客もいないからだから大丈夫だろう。僕は頷いてピアノに座った。
左手の薬指をF、親指をCに置いて腕の重さを柔らかく乗せる。Fメジャー。前奏なし。ミドルテンポの爽やかラブソングだ。コード進行は1456とシンプルで、たまに入るディミニッシュコードが効果的だ。メロディに歌心があるから弾いていて気持ちがいい。あざとくはなく、ギリギリの甘さに踏みとどまっている。歌と歌詞、打ち込み演奏のバッキング、ギターの魅力は大きい。ピアノソロでは抽象的になりすぎる。原曲を知らないとあまり印象に残らないだろう。人前で弾くことを想定していなかったので確実に弾く練習はしていない。ちょっと遅めに慎重に弾いた。ワンコーラスアドリブを入れる。無理はせずメロディフェイク※程度だ。凝ったエンディングを仕込んだわけでもなくすんなり曲を終わらせた。目を閉じて最後の音を出し終える。パチパチとカウンターの彼女が拍手を送ってくれた。僕は軽く頷く。
客がまだ彼女一人なのを確認して次はジブリの曲をジャズっぽく演奏してみた。ジャズ研の先輩がここにいたら苦笑したことだろう。でも、彼女にはウケたようだった。そのままのノリで最近のアニソンやジブリの曲をつなげた。マスターをちらっと見たら少し笑っていた。好意的な笑みだったので少し安心する。
アニソンやJPOPをジャズっぽく演奏するのは難しい。ただコードを複雑にしても(例えば7thや9thを追加しても)大抵はヒドい結果になる。コード進行を全て洗い替えると原曲の雰囲気は消えてしまう。原曲のコード進行を完全に洗い替えた上で、ところどころ元のフレーズを差し込むくらいやればなんとかなるかもしれないけれど、考えるだけで大変だ。
扉が開く音がしたのでジブリの曲を最後にアニソン縛りをやめた。入ってきた客は50代の男女だ。カウンターに座る時に女性の方が「ジブリ?」と嬉しそうに言った気がした。その後「Someday My Prince Will Come」、「When You Wish upon a Star」 を弾いてアニソンの空気を中和し、ジャズスタンダードに戻る。「酒バラ」を弾き終えたところで1時間が経ったので休憩するためにカウンターに戻った。
彼女が拍手で迎えてくれた。僕は小さく肩をすくめて隣に座った。50代のカップルからもご挨拶程度の拍手をもらった。僕は微笑みを作って会釈をした。
「ごめん。ギノくんが正直こんなに上手いと思わなかったわ」
「いやいや、この間のライブでピアノ弾いてた人と比べると全然だよ」
「これだけ弾ければ十分でしょ。お金取れるじゃん。プロじゃん」
「ありがとう。ただのBGMだよ」
楽器経験者から褒められて、さすがに悪い気はしなかった。
「楽譜ほとんど見てないよね。曲覚えてるの?」
「まあね」
「すごい。何曲くらい?」
「数えたことない。分からないよ」
「数えてみたら?」
僕も少し気になって黒本の目次を開いてはみたが、すぐに面倒くさくなってしまった。
「うーん、多分20曲くらいかな」
そのくらいなら多分大丈夫だろう。
「20曲もどうやって覚えるの?」
「キーとベースライン覚えればイケるよ」
彼女は笑った。
「セッションホストのベースの人も同じこといつてたわ。簡単に言うわね」
「まあね。サックスの方が曲は覚えやすいよね」
「うーん。キーと転調パートだけ覚えればなんとかなる・・・、ということになってる」
「なるほど、スケールさえあってれば大丈夫か。確かに」
ジャズ理論の話が止まらなくなって女性から引かれたことが何度かある。
「えーと、そういえば名前聞いてなかったんだけど」と僕は思い出した。
「ええ!?そうだっけ!?しっかりしてよギノちゃん!」といいながら彼女は財布から名刺を取り出して僕に渡した。
「まさか来てくれるとは思ってなくて」
と僕は名刺を受け取りながら言った。実際、また会えるとは思わなかったのだ。
※ ルートと5度のみの
※ 開始、終了の音が同じだったりと、あまりメロディを離れないアドリブ




