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その後彼女は店に来なかった。
よくあることだ。バーで女性と親しく話せてもその日限りだ。シラフの日常生活に戻ればそれでおしまい。別世界を行き来したようだ。LINEやSNSアカウントを交換してもリアルの付き合いにはつながらない。SNSのつながりは時間の無駄と判断してチェックと"いいね"をやめてしまった。親しくなった女性は以前に服を見繕ってくれたマツカワさんとその連れのノガミさんの二人だけ。それも弟感覚でのイジり対象だ。
孤独とは言えないが、継続的な人間関係がない生活が続いていた。週に一度ピアノを弾いて酔客と雑談し、週に一度出社する。それ以外はリモートワーク。一人で仕様書を読み込み、プログラミングしてテストする。たまにミーティングで質疑応答のやり取り。仕事が終わったら自分で簡単な料理を作って、ビールを一缶だけ飲む。それからピアノの練習と耳コピに取り組む。飽きたらNetflixとアマゾンプライムで映画やアニメを眺める。仕事以外はピアノとフィクションを往復するこの生活は、僕の性に合っていた。
気になっていた映画を一通り見終わってからは、アニメ専門のサブスクを見始めた。本当にくだらないアニメが多い中、妙に心に引っかかるアニメがあった。そういう作品を探して、この作品の何が刺さるんだろう?と考えながら、適当にザッピングして過ごす。酒は飲まなくなった。アニメとアルコールの相性が良すぎた。酔っ払った脳にアニメを流し入れると孤独とストレスが消えていく。その場しのぎで健全な営みとは思えなかった。それに、他のことが何もできない。酒を飲まなければ金はかからないしピアノの練習もはかどる。結局、家で飲むことはやめてしまった。
ある日リモートワークの昼休みに、ふとNothing Elseの山﨑さんのことを思い出した。あれから彼を見ていない。やはり本気で勧誘してきたわけじゃなかったのだ。大学でジャズ研にいた経験から、音楽がらみの人間現関係には少し腰が引けている。変わった人間が多い。しつこく勧誘されないのはむしろありがたかった。ネットで店を調べると、ちゃんと更新されていた。今日もジャズライブをやっているようだ。チャージは3,000円でワンドリンク。出演者は知らない名前。東京の若手ジャズミュージシャンに詳しいわけじゃないから当然だ。
仕事を終え、残り物を軽くつまんでから、Nothing Elseに向かってみた。飲み屋、中華料理屋、風俗店の入った雑居ビルが立ち並ぶ歓楽街を抜けて、暗く静かになったあたりの道路に青い看板が出ていた。場所は細長く立つビルの地下。郵便受けには"Nothing Else"の他、税理士事務所や会社名がいくつか見えた。
エレベータのボタンを押して乗り込み、地下一階のボタンを押す。ドアが開く。正面はクローゼットほどの狭いエリア。傘立てと、左手にハンガーがある。右手がホールになっていて、バーカウンターが見えた。カウンター後ろの若い女性がスマホをから目を離してこちらを見た。
髪の毛を真ん中できっちり分けて、後ろで縛っている。左右に少し前髪を垂らしてある。小さな銀色のピアスに紺色のカットソー。顔のパーツは整っている。地味でもなく派手でもなく、トータルの印象が薄い。化粧も最小限。僕と同世代のようだ。僕が近づきながら会釈すると、業務用かつ儀礼的な微笑みを作った。
「いらっしゃいませ。ライブですよね?」
頷いてポケットの財布を探る。
「チャージいくらでしたっけ」
「3,000円でワンドリンク付き」
財布を手に取った流れで現金で支払った。スマホ決済にも対応しているようだから、次回は現金は置いてきてもよいだろう。次があれば、の話だが。
「お飲み物は?」
「えーと、ビールで」
軽くうなずいて、奥の冷蔵庫からキリンの小瓶を取り出した。栓を抜いてから、グラスと一緒にカウンターに置いた。「どうも」と言ってビールとグラスを自分に寄せて、改めて店の中を眺める。
4LDKの家族用マンションの壁を取り払ったくらいの広さだった。奥がステージになっていて、グランドピアノとドラム、ベースが見えた。ステージといっても少し高くなっているだけ。その横の暗がりにソファがあって、出演者が座っていた。スマホをいじったり考え事をしたりしているようだ。手前の人が僕の方を少し見て知り合いではないと判断し、またスマホに戻った。
壁はコンクリート打ちっぱなし。ところどころすり減ったリノリウムの床に、安っぽい椅子とテーブルが5セットほど交互に配置されている。内装に金をかけてないのは明らかだ。殺風景な空間で一人で4人がけの席に座るのも気が引けた。
「お店は初めて?」
「や、そうです」
「Jazzが好きなの?」
僕は頷いた。
「えーと、僕もタメ口でいいのかな」
「歳近いでしょ」
「そう思う。ちなみに何歳?」
「秘密。あはは」
「これは失礼しました」
「でそちらは?」
「26」
「ふーん」と言って彼女はニヤリとした。
馴れ馴れしさは感じなかった。親しげなようで心理的な距離は十分に取っている。僕と違って対話慣れしているのだ。
「どのあたりを聞くの?」
「キース・ジャレットとかウィントン・ケリーはよく聞くかな。そちらもジャズ好き?」と僕は答えた。
「コルトレーン。デクスター・ゴードン。あとはチャーリー・パーカー」
思わず笑う。
「渋いね」
「サックス吹くからね」
そう言って彼女はカウンターの奥に立ててあるサックスに目をやった。
「すごい。ひょっとしてプロ?」
彼女は首を振った。
「趣味。吹部にいたからね。社会人になってからジャズでもやってみようと思って。ここって初心者向けのジャムセッションもやってるでしょ。あ、そろそろ始まるみたいよ」




