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結局その日はマツカワさんにビールを奢り損ねた。全て自分で支払っていたのだ。後日申し出てみても「気にしなくていいわよ」とあしらわれただけだった。借りができたようで引っかかったが、大人しく諦めた。


珍しく若い女性から話しかけられたのはその後のことだから、やはり髪型と服装を整えた効果があったようだ。

その日はいつも通り21時くらいまでピアノを弾いて、カウンターでその日の演奏を反省しながらぼおっとビールを飲んでいた。

「お上手ですね」

横から突然話しかけられた僕は少しのけぞった。いつのまにか隣に若い女の子が座っている。

「ありがとう。でも全然下手ですよ」

「ジャズも楽譜あるんですね。見せてもらっていいですか?」

「どうぞ。ちょっと汚いです」

コットンのトートバッグから黒本を取り出し、彼女に渡した。楽譜を読んでいる彼女をチラチラと観察する。年齢はせいぜい二十代前半。大学生かもしれない。髪の毛は短めのボブ。薄くブリーチして茶色がかっている。横から見えるあごの輪郭はしっかりしていた。目は大きめで気が強そうだ。白のブラウスに黒のワンピース。それに控えめなシルバーのネックレスとピアス。気のおけない古びたジャズバーには少しシック過ぎるかもしれない。緊張感と若干の警戒感を隠し切れていない。年上のピアノ弾きに話しかけているんだから当然だろう。

「コードとメロディしか書いてないんだ。これで弾いちゃうんですね」

楽譜を見ながら自然と動いている指を見てこの人もピアノを弾くのだろうと直感した。視線を感じてテーブル席に目をやると、同じくらいの年齢の女の子が二人、僕から目を逸らせてニヤニヤしていた。この子の連れだろう。

「知ってる曲もありますね。あ、これはディズニーか」

一緒に楽譜を見るふりをして彼女の手を観察する。特に大きいわけではないが、手のひらの小指側が微妙に厚く、指も細いとは言えない。

「ひょっとしてピアノ習ってました?」

「すごい。どうして分かるんですか?」

手と指ががっしりしているからです。とは言えなかった。

「や、普通に楽譜読んでるみたいだし」

「幼稚園からピアノ習ってますよ」

「やっぱり」と僕は頷く。ということは僕よりも上手いだろう。

「アドリブってその場のノリで弾いてるんですか?準備なしで?」

「そういう弾き方をすることもあるけど、最初から最後まで仕込みの時もある。というか、僕の場合ほぼ仕込みですね」

正直に答えた。

「へえ。そんなものですか」

「プロはどうか知らないよ。僕の腕前で最後までリズムキープで演奏しようとしたら、かなり練習しないと危なくてダメですね」

饒舌になっている、と思う。若い女子と話すとどうしてもテンションが上がる。あまり早口でまくし立てると舞い上がってるようでカッコ悪い。いや、すでに舞い上がってるな。ビールを飲んで一息入れる。


彼女は相変わらず黒本をめくっていた。本を返す気配はない。少し迷って楽譜の入ったフォルダを取り出した。A4サイズが4枚。"Fly Me to the Moon"のソロを3コーラス組んだものだ。オープニングとエンディングも書いてある。

「これ、自分で作ったアドリブソロです。あ、濡らさないようにね。インクがにじんじゃうので」

手が濡れてないことをを確認して彼女が紙を受け取った。

「楽譜に落として繰り返し練習してるんだから、アドリブじゃないか」

「すごいですね!こんなふうに準備してるんだ」

あまりすごくない、と思って苦笑する。アドリブ・チートシートじゃないか。僕の様子を見て彼女が続けた。

「だって作曲してるようなものでしょ?」

「えーと、そこまで神経は使わなくて、適当にスケールで埋めるまでありますね。ノリでなんとかなるというか、勢いが全てというか」

楽譜に興味を持っているのは本当のようだ。僕は同じフォルダから別の4枚を取り出し、渡した。

「こっちは耳コピしたやつ。エディ・ヒギンズの"枯葉"です」

「聞いたことないですね」

「エディ・ヒギンズ、いいよ。古き良きヨーロピアンジャズって感じ」

「ヨーロピアンジャズですか。ふーん」

彼女に枯葉"を渡し、引き換えに"Fly Me"を受け取ってファイルにしまう。

「例えばこのフレーズ、その場で思いついて弾けると思います?」

と水を向けてみた。

彼女の両手が動く。試行錯誤しているようだ。

「や、これは難しいですね」

白鍵と黒鍵が入り組んだ複雑なフレーズだ。どこで指をまたぐか。中指を使うか薬指か。一つでも間違えると詰まってしまう。

「でしょ?それをかなりのスピードで一気に弾き切ってる」

「ってことは、あらかじめ練習したフレーズってことですか?」

「それは分からない。アドリブだからこそ、そのスピードで弾けるとも言えるかもしれない」

「うーん、これは相当練習しないと無理ですよ?思いつきじゃ弾けないんじゃないかな」

「まあね。実は僕もそんな気はする。結局グレーゾーンだと思うんですよね。確かに、毎日練習しないと弾けるフレーズじゃない。でも事前に繰り返し練習して仕上げてこの通りお披露目したわけじゃないと思う。さすがに」

ビールを一口。

「その場で少しアレンジしてるかもしれない。ひょっとしたら本当に突発的に出たフレーズかもしれない。なんとも言えないよね」

と早口で言ってしまい、喋りすぎたと思う。

「そんなもんですか」

あまり納得してない様子だった。

「アドリブと言ってもいろいろあるんですよ。きっと」

話をまとめて僕はビールを飲み干した。さりげなくスマホの時間をチェックする。21時30分。つられて彼女もスマホを確認し、パタパタと手短に操作してカウンターに伏せた。

「すみません、いろいろありがとうございました。勉強になりました」

「や、勉強ってそんな。面倒臭い話してしまいました」

「すごく面白かったですよ。えーと、私そろそろ失礼しますね。友だちから呼ばれてたみたい」

儀礼的なやり取りをして彼女は友だちの席に戻り、お勘定を済ませて出て行った。


いつもの通りバーの皿洗いを手伝いながら、先ほどの会話を思い返した。すごい美人というわけじゃないけど、受け答えがしっかりして感じが良い子だった。学校でも男子からもわりと人気のあるタイプだったかもしれない。昔はろくに話もできなかったが、ほとんど緊張せずに話せた。社会人が学生を相手にしていると思えば気持ちに余裕が出るのか。女性と会話をする機会が増えて会話に慣れたというのもあるだろう。少し前のめりだったけど、少なくとも相手は引いてなかったよな。正直、また彼女とピアノの話をしたいと思った。でも、来てくれるかどうか。

「難しい話してましたね」

とアルバイトの子が僕に笑顔で話かけた。

「彼女ピアノ弾くみたいですよ。絶対僕より上手いと思うな」

「またまた」

「や、間違いない」

と僕は大袈裟に顔をしかめて頷いた。彼女はにこにこしながら客に飲み物を運びに行った。



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